16

 カイがこれまで見た中で、最も巨大な異形だった。元は狼だった異形は、以前とはとても比較にならない巨体に変異していた。

 見上げるほどの異形が頭を振ると、近くの木々の枝や幹はバキバキと音を立てて折れたりひん曲がったりした。灰色の毛皮は日光を浴びて鈍く輝き、筋肉質な全身を覆っている。金色の目はギラギラと輝き、太い足が一つ歩みを進める毎に、地面が揺れる錯覚を覚える。

 とても敵う相手ではない。林の中にしゃがみ、カイはすぐ脇に膝をつくサクに視線で伝えた。彼も同じ思いのようで、緊張し微かに引きつった顔を左右に二度振った。

 木々の生い茂る山は、一方が切り立った崖になっている。そちらに背を向け、二人は鉢合わせた異形から隠れてやり過ごそうとしていた。

 異形は食料を探している様子で、しきりに鼻を動かしてあちこちに顔を振っていた。三角の耳はぴんと立ち、生き物の立てる音を逃さまいとしている。

 その身体が背後を振り向き、カイはショットガンを握る手に力を込める。直線距離は約三十メートル、だがまだ気付かれたとは限らない。全身に力をみなぎらせる獣が、右の太い前足を大きく振った。

 木立から鳥の群れが空へと羽ばたいたが、数羽が地面に叩き落された。同時に軽い音が傍らから聞こえ、その微かな音に異形が振り向いた。カイが視線を向けると、咄嗟に口を両手で塞いだサクが、銃を地面に取り落としていた。

 それを確認したカイはすぐさま狙いを定め、引き金を引く。異形の額、目、口元へめがけ計五発。顔面への連射に相手がひるんだすきに、銃を拾ったサクの腕を掴んで走り出す。

「ごめん、カイ、僕のせいで」

「気にすんな、あいつはいずれ俺たちに気付いてた」

 サクを励ましつつ、せり出す小枝に体当たりし、太い木の根を飛び越え、走りながら考えを巡らせる。奴から逃げ切るのは不可能だ、どうにかして倒すしかない。

 背後で太く恐ろしい咆哮が響き、たちまち地を揺るがす足音が追ってきた。バキバキと木々の枝が折れる音、ざわざわと葉が揺さぶられる音、激しい息遣いまでもが感じられる。

 カイが合図をし、二人は左右に別れて転がった。突進する異形が二人の間を駆け抜け、正面の大木に激突する。ずしんと重い衝撃があたり一帯に走った。二人はすかさず撃てる限りの銃弾を叩きこむ。スラッグ弾のめり込んだ灰色の毛皮に鮮血が滲み、異形は憤怒の形相で絶叫する。

「くそ! まだ倒れねえのかよ!」

 仮に人間なら跡形もなくなっているはずだが、巨大な異形は四本足で力強く自立している。発達した骨と筋肉が、鎧の役割を果たしているのだ。

 大声に感化され向かってくる異形をぎりぎりでかわす。身代わりになったザックが爪で引き裂かれ中身を零すのを感じた。身体を起こそうとして、ぐんと後ろに引っ張られた瞬間、自分の身体が宙を舞っていることに気が付く。異形が破れたザックに噛みつき、それを背負う身体ごと投げたのだ。右半身から木にぶつかり、地面に落下し、衝撃に息が詰まった。もがくようにザックを身体から剥がし、息を切らしながらなんとか銃を握って立ち上がる。もう目の前に異形の姿がある。弾を込める合間もない。

 筒状の物が白い煙を吐きながら、カイと異形の間に飛び込んだ。駆け寄るサクに腕を掴まれ、カイも共にその場から離れる。異形はサクが投げ入れた発煙筒に混乱して暴れ、近くの木々をめくらめっぽうなぎ倒している。

「少しは効いてるはずだ!」カイは走りながら叫ぶ。「一発致命傷をくらわせてやればいい」

 鼻の良い獣はしつこく、獲物を逃がそうとしなかった。もう煙が晴れたのか、一目散に接近する足音が迫る。

 二人は山の中にぽっかりと空いた真っ暗なトンネルに駆け込んだ。やっと人が三人並んで歩けるほどの小さなトンネルの入口に、またもや異形が飛び掛かる。轟音が鳴り響き、二人の頭上にぱらぱらと小石が零れ落ちた。人通りが絶えて何十年も経った古いトンネルは、いつ崩落してもおかしくない雰囲気を湛えている。異形は頭を突っ込んだはいいものの、太い腕と身体を繋げる肩がつっかえて、奥へ入れない様子だ。咆哮がトンネル内に反響し、鼓膜が破れてしまいそうになる。頭が引っ込んだかと思うと、太い前足が侵入し、辺り一帯をかきむしる。ガリガリと鋭利な爪が硬い石壁を悔しそうに引っ掻いている。

 その隙にカイは銃に弾を込め直した。光源は外から差し込む僅かな光だけだったが、手慣れた動作は確実に銃弾を装填させた。背後に抜けようにも、トンネルの奥は半壊しており、向こう側に辿り着けるかはわからない。無理に通って崩れればその場で生き埋めになってしまう。

「入ってこれないよね……」

 暗闇で、すぐ横からサクの声が聞こえる。

「ああ、あの馬鹿でかい図体じゃ無理だ」

 自身に言い聞かせるように返事をしたカイは、汗を拭った。触れたそれがいやに温かく、右の側頭部から血が流れていることにやっと気が付いた。出血の不安よりも、こんな時にという忌々しい気持ちになる。

「カイ、血が出てるよ」

 真っ赤な血のついた腕を見て、サクがそっとカイの髪に指を触れさせた。細く冷たい指先は、心配そうに恐々と頭を撫でた。そんな彼に触れようとした右手を引っ込め、左手でぽんぽんと頭を叩く。

「ちょっと切れただけだ。何ともない」

 いつの間にか異形はトンネルに入るのを諦めたのか、周囲を引っ掻く音は止んでいた。だが、蓋をするように出入口の前に立ち塞がっている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る