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二人が生まれるずっと前、もう七十年も前にとあるウイルスが世界中に蔓延した。リーパーと名付けられたウイルスは宿主の命を容易に刈り取り、多くの犠牲を生んだ。更に人々が脅威したのは、リーパーの百パーセントの致死率だけでなく、その特異性にあった。
宿主の形態を変化させ、更に理性を奪い狂暴化させる。親しい者たちが異形と化すことを誰もが恐れ、明日はわが身と怯えた。生き残った人々が生活を送るためのシェルターが建築され、自らウイルスと共存を望む者以外は、皆その中に籠る生き方を余儀なくされた。
リーパーへの耐性には個人差がある。だが稀に超耐性と呼ばれる突出した耐性を持つ者が存在し、それが防護服もなく旅を続けるカイやサクといった人間だった。
二人は村を探しに出たが、見当はついていなかった。自分たちは西から山に入ったのだから、東に抜けようと単純に考え歩を進める。急ぐ旅路でもないのだ。
それぞれ大きなザックを背負い、道のない山を歩く。人が入らなくなって久しい山からすっかり道は消え、ときおり獣の通った跡が確認できる程度だった。広葉樹が青々と葉を茂らせ、隙間から差し込む陽の光がちらちらと足元を照らす。高い場所で鳴いた鳥が、枝を蹴って葉をかすめ飛び去っていく。山は静かで、遠い川のせせらぎが柔らかく耳朶を打つ。恐ろしいウイルスが蔓延しているとは思えない長閑な風景だった。
「うーん、どっかに村あるかなあ」
開けた高台の岩の上で、片手で庇を作りつつカイが前方を見渡した。サクも岩をよじ登り、両膝をついたままカイと反対側を見下ろす。森林が広がる向こうに、彼は人工の影を見つけた。
「カイ、あれ」
そちらを指さすと、振り向いたカイも「おっ」と声をあげた。
「あの森の向こう、街があるっぽいな」
「村じゃなくて、街に住んでた人だったのかも」
「だな。よし、行ってみるか」
ある程度の耐性を持った者が集まり、点々と村や集落を築いて暮らしている。だがその数は決して多くなく、更に街という規模の集団には滅多に出会うことがなかった。方角を確認し、おおよその距離を測り、岩の上を滑り降りる。山を下りて森を抜けなければならないから、とても今日中には辿り着けないだろう。
しばらく道を歩き、二人は山中で落ち着くことにした。下ろした荷物から深緑色に着色されたシートを出し、木々の間に渡したロープにかけて屋根を作る。簡易なテントを張り終え、周囲を探索していたカイは戻ってくるなり小声でサクを呼んだ。拾った枝を乾かしていた彼は、何ごとかとカイの元に寄る。
「鹿がいた。チャンスだ、サク。俺の銃で撃ってみろ」
カイの言葉に、サクは口角を下げ、隠しもせず嫌な顔を見せる。
「そんな顔すんなよ。訓練だ訓練。モスバーグも使えるようになっとけよ」
「必要ないし……」
「いつ何が起こるかわかんねえぞ。俺が死んでおまえのレミントンが使えなくなる場合があるかもしれない」
「想像できないんだけど」
言い返しながらも、サクは渋々自分が肩にかけている銃をカイのものと交換した。銃の種類に興味のないサクは、受け取ったそれがモスバーグM500という銃だとカイに教えられて知った。彼に会うまでは自分のレミントンM870ばかりを使っており、悪い意味で慣れ過ぎていた。保証のない生き方をしている以上、いざという時を考えれば、カイの言う通りあらゆる手を使えるようになるべきだろう。
カイは器用で、どちらの銃もあっさり使いこなす。旅をしてきた時間が違うとはいえ、サクの多少の慣れとは比較にならない手際の良さで、サクが自分は射撃が苦手なのだと思い込んでしまうほどだった。実状は器用なカイとの相対的な自己評価であるのだが、進んでモスバーグを使う気にはなれなかった。
カイに連れられてそっと道なき道を行くと、六十メートルほど向こうに鹿の角が見えた。立派な牡鹿が首を下方に曲げている。木立に隠れて口元は見えないが、足元の草を食んでいるらしい。抱えたモスバーグの銃口を下に向けたまま、サクは慎重に前へ進む。異形化はしていないから大丈夫だとカイは言った。その通り、大人しそうな鹿だ。
銃床を肩に当ててしっかりと支え、鹿の頭に照準を合わせる。焦ってはいけない。標的はまだ大人しく草を食べている。
鹿が僅かに身じろぎしたのが、引き金を引いた直後か前かはわからない。銃声に驚いた獣はピョンとその場を跳ね、一目散に山の中へと消えていった。
「あー、惜しかった」雑草を踏みぬけたカイが隣りに並んで苦笑する。「獣の動きってのは読めないな」
「カイなら当ててただろ」
消沈の気配を滲ませるサクから銃を受け取り、どうかなとカイは軽く首を傾げてみせる。
「わからん。言っただろ、獣の動きは読めないって。まあ銃が使えなくっても、サクは運動神経がいいからな。危なくなってもなんとかなるだろ」
「言い出したのはカイのくせに」
不貞腐れるサクを見て、カイはけらけらと笑いながら薬莢を拾った。
陽が暮れるまでに川で水を浴び、罠にかかった一羽の兎を回収しつつ多数のアミガサダケを採集した。サクが兎の血を抜いて捌き、カイは火を焚く。平行に二本並べた太い枝の両端に細い枝を差し込んで地から浮かせる。そうして空気の通り道を作り、太い枝の上に並べた小枝や木っ端に、着火した樹皮から火を移す。赤々と燃える焚き火を見ると、カイは無事に日暮れを迎えられたというだけでなく、理由の解らない安心感を覚える。きっと人は炎の温もりに安堵する生き物なのだ。鍋に湯を沸かし、塩をまぶした兎の肉と集めたキノコに加え、以前村で手に入れた煮干しを投入する。陽がゆっくりと傾き、周囲が薄闇に包まれる頃、二人は食事を摂った。腹の中に温かな炎が宿るようで、どちらからともなくほっと息をついた。
夜が更けると、ぽつぽつと雨が降り始めた。鍋を外に置いて雨水を貯めながら、二人はシートの簡易テントの中で、しばらく黙って雨音を聞いていた。月は雲に隠れ、焚き火は消え、辺りは自分の指も見えない暗闇に包まれている。
耳を澄ませて獣の足音がないか探っていたカイは、ふと自分を呼ぶ声を聞いた。
「どうした」
問いかけると、サクが身じろぎする気配がある。
「もう寝る?」
どこか心細く聞こえる彼の声に、カイは「ああ」と返事をする。
「もうちょっとしたら寝るよ」
「僕も起きてようか」
「いや。昼間に見回った時も、異形化した獣の痕跡はなかった。この辺には熊も出ないし、ましてやこんな雨の夜に誰かが来るわけもない。俺も寝るから、おまえも寝ときな」
少しして、サクがうんと返事をする。シュラフに潜り込む音が聞こえ、「おやすみ」と声がした。おやすみと返事をして、カイは暗闇を探るように月の見えない雨空を見上げた。
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