亡き老人のキティ
廊下に出ると階下の騒ぎが一層良く聞こえてきて、キャシーは思わずアシュリーに寄り添う格好で縋り付いた。足音だけでなく罵声も辺り構わず響いており、幼いとはいえ言葉もわからない年齢ではないキャシーは、すっかり怯えてしまっている。
「うぅん……こんな状態が続いたんじゃ、ケイトも君も気が休まらないね。どうしたものかな……」
「アシュリー……ありがとう」
屋敷の西側テラスは、正面の庭園ほどではないにせよ、手入れされた薔薇の生垣や丁寧に手入れされた花壇が一望出来る場所である。いまの季節は、リリーホワイトの名に因んで植えられた白百合が咲いているはずで、アシュリーもそれを楽しみにしてきたのだが。
「これは……」
西側テラスに出たアシュリーは、言葉を失って立ち尽くした。
花をつけているはずの花壇は踏み荒らされ、薔薇の生垣は乱暴にかき分けたあとが無数にある。泥まみれの足跡が其処ら中を埋め尽くしており、その足跡は、泥汚れを纏ったまま屋敷の中へ続いている。
あまりにもひどい有様で、言葉にするのも憚られた。
「アシュリー、どうしたの?」
「……すまない、キャシー。僕もどう説明したらいいのか……」
アシュリーは一先ずキャシーをテラスのカフェテーブルまでエスコートし、椅子を引いて座らせた。
改めて庭園を見渡しても、現実が変わるはずもなく。アシュリーは言いづらそうにしながらも庭園の有様をキャシーに伝えた。
「そんな……おじいさまの百合が……」
美しい翡翠の瞳から、はらはらと涙が落ちる。屋敷も庭園も、キャシーにとっては思い出が詰まった場所だ。特に花壇の白百合は、ジェラルドが健在だったころ一緒に植えた大切な花だ。
幼いレディを泣かせてでも、美しい庭園を踏み荒らしてでも手に入れたい遺産とは何なのか。
アシュリーはハンカチを取り出すと、キャシーの頬にそっと触れた。
「キャシー、涙を拭いて。探せばもしかしたら無事な花があるかも知れない。騒ぎが落ち着いたら、庭師を呼んで一緒に探してみるよ」
「ほんとう……?」
朝露に濡れた百合の花弁の如き滑らかな薄紅色の頬と、大粒の翡翠がアシュリーに向けられる。正面に座っても、名前を呼んで言葉を交わしても、決して彼女と視線が合うことはない。
こんなことをいうべきではないと思いつつも、アシュリーはいまこのときばかりはキャシーの目が見えないことに感謝した。優しい彼女の目に触れるには、あんまりな光景だから。
「ああ。生垣のほうは根っこまで抜かれたわけではなさそうだから、きっと来年にはまた綺麗な花を咲かせてくれるはずさ。そうしたら今度こそ美しく咲いた百合の花の傍でお茶会をしよう」
「……ええ、そうね。ありがとう、アシュリー」
涙に濡れた瞳を和らげて、キャシーが淡く微笑んだときだった。
「退けッ!!」
「きゃあ!」
アシュリーの目の前に白い小さな塊が飛んできたかと思えば、屋敷の外周を回って駆け込んできたオズワルドの息子、ランドルフが、キャシーを引き倒した。デッキの上に倒れたキャシーに構わず、ランドルフは彼女の髪を踏みつけたままアシュリーの胸からなにかを引き剥がした。
「ふぎゃっ!」
「やめてください!」
悲痛な猫の悲鳴でようやくなにが起きたかを理解したアシュリーは、立ち上がってランドルフに向かって叫ぶ。だが、彼は追い回す人々から逃げ回っていた猫を乱暴に掴み上げると高らかに笑った。
「はははっ! これで遺産は俺のものだ!!」
片手で猫の首根っこを掴み、まるで戦利品を見せびらかすかのように、高く掲げて哄笑する。
その足元、靴の下には、デッキに散ったキャシーの長い髪がある。頭を抱え、涙の滲んだ目をぎゅっと瞑って耐えているキャシーを見た瞬間、アシュリーは全身の血が逆流するかのような感覚に襲われた。
「……ッ、いい加減にしてください!!」
アシュリーはランドルフを押しのけると、優しくキャシーを助け起こした。血液が沸騰しそうな怒りを覚えている片隅で、自分もこんなに大きな声が出せるのかと変に冷静な感想を抱いてもいる。押しのけられたランドルフは舌打ちをしてアシュリーに何事か言い返そうとするが、自分の手の中にあるものを改めて認めると、勝ち誇った顔で「まあいい」と吐き捨てた。
「あっ! アイツよ!」
幾許もなく、ランドルフの高笑いとアシュリーの大声で気付いた他の候補者たちがバタバタと集まってきた。そしてランドルフの手に猫が捕えられているとわかるや、目の色を変えて奪おうと掴みかかる。
其処からは、最早地獄の様相。細い慈悲の糸を巡って争う亡者の如き有様で。
「やめろ! これは俺のものだ! 俺の遺産だ!!」
「冗談じゃないわ! アンタなんかに渡したら、あっという間にギャンブルに消えて無くなっちゃうじゃない!」
「ギャンブル狂いのジジイは引っ込んでなさいよ!」
「色ボケババアもお呼びじゃないんだよ!」
「この業突張りのクソババア! 香水臭ぇから近寄んじゃねえ!!」
「キィィッ! なんですってえ!?」
勢い余って放り出された猫を余所に、つかみ合っては髪を引っ張り、頬をつねり、爪を立てては罵り合い始めた。素早い猫を追うよりも先に、ライバルを蹴落とそうという算段だろう。
キャシーを抱えて一先ずテラスから庭園へと逃げ、生垣の根元にしゃがんで顛末を見守っていたアシュリーの元に、猫のケイトが音もなく忍び寄る。
ケイトは身を寄せ合っている二人のあいだに滑り込むと、小さく一声鳴いた。
そのとき。
「――――テオ!」
キャシーが大声で叫び、直後、リィンとハンドベルの音がなった。
もみ合っていた一族がハッとして音のしたほうを見る。テラスから邸内へと通じる窓の前に、黒い燕尾服姿の男が静かに佇んでいた。
ハンドベルを鳴らしたのはその男で、リリーホワイト邸で執事をしている人物だ。彼の横には弁護士も居り、手には遺言状がある。
「後見人が決まりました。以降は全て、後見人と相続人の意志に委ねられます」
弁護士がそう言うと、ランドルフが笑い声をあげた。だが、その笑いはすぐに曇ることとなる。
「読み上げます。後見人、アシュリー・オリヴァー。相続人、キティ――――改め、キャスリーン・リリーホワイト」
バッと布が翻る音を立てて、一斉に候補者たちがキャシーを振り返る。
荒れ果てた庭園の、無残な生垣の傍で蹲る少女。彼女こそが、リリーホワイト氏が遺産を託した『私のキティ』こと、キャスリーンだった。
キャシーは、アシュリーの手を借りて立ち上がると、スカートの裾を払って優雅に一礼した。
「わたしが、おじいさまより全てを任されていた、おじいさまのキティですわ」
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