最終章

第32話 甘すぎる五色虹マカロンは結構です!

「ユティア」


 甘い声。

 誰かが私の肩を揺さぶる。

 いつものシトラスの香りがなくて「あれ?」と思ったのだけれど、目を開けた瞬間、何重にも美しい紋様と術式が付与された硝子の部屋、温室庭園があった。


「え?」


 再び見られるとは思わなかった美しい温室に、目を疑った。

 何よりここには、

 あの人?


 私を呼ぶ甘い声。

 目が覚めたら「おはよう」とキスをして、ぎゅっと抱きしめてくれた人がいたはずなのに──思い出せない。

 それからモフモフ、抱きつきやすい白系の神獣種がいたような?

 とっても幸福で、毎日が輝いていたのに……あんなに美しいと思っていた温室が色褪せて見える。


「お茶の時間にうたた寝してしまうほど、疲れていたようだな」

「……アドルフ殿下?」


 黒髪の美しい青年を見て、違和感が生じた。

 殿下が温室に来たのは、私に婚約破棄を言いに来た時と、幼い頃──あれ?

 婚約破棄って、いつしたのかしら? 

 どうして婚約破棄に、なったのだっけ?


 周りを見渡すと、緑豊かな植物に四季折々の花が咲き誇っている。噴水もあるし、お気に入りのテーブルとソファも元通りだ。

 テーブルの上には最高級品の菓子と、淹れ立ての紅茶の香りが鼻孔をくすぐる。ここが現実だと視覚、聴覚、嗅覚、触覚が告げているのに、どうしても淡い夢のように感じてしまう。


「今日は特別に、君の好きだったマカロンを用意したんだ。他にも珍しい菓子を用意している」

「アドルフ殿下がわざわざお取り寄せを?」

「ああ。ほら、食べてごらん?」


 漆黒の長い髪に緋色の瞳、長身で整った顔立ちの偉丈夫は、柔らかな笑みを浮かべて頷いた。「こんな風に笑うのね」と思うほど、久し振りに彼が笑いかけてくれたというのに、私の心はちっともドキリとしなかった。

 どうしてかしら?

 私とアドルフ様は、婚約者だったはずなのに?

 俯いている私に、アドルフ様はマカロンを一つまみして差し出す。


 五色虹の蜂蜜と、五色花を使った虹を彷彿とさせるマカロンは、この国でしか食べられない高級品だった。

 マカロンはメレンゲとマカロナージュが大事で、ポイントを抑えないと失敗してしまうとても難しい菓子の一つ。

 ああ、これを今度、あの人に作ったら喜んでくれるかしら?

 あの人?


 どうにも記憶が曖昧でふわふわしている。どうして自分がここに居るのか、その前の記憶が断片的で、上手く現状と繋がっていないような?

 無理矢理記憶を捻じ曲げて紡ぎ合わせたような……違和感があるわ。


「エリーのこと、そして私が愚かだったことを謝罪したい」

「……エリー様? 聖女の?」

「ああ、彼女の言葉に誘惑され、君がどれだけ王家にとって、私にとって大事な存在だったのか忘れてしまっていた。『忘れ時の絵画』という絵画を偶然見てしまい、その時に元の世界に戻るため君との思い出を対価に払ってしまった──らしい」


『忘れ時の絵画』……つい最近、その話を誰かから聞いたような?

 私との思い出を対価として渡してしまった? 

 だからある時からアドルフ様は、温室に来なくなった?

 本来なら胸が締め付けられるような気持ちになるのに、どうして心が響かないのかしら?

 それよりも、もっと大事なことを自分が忘れているような気がして、そちらに気持ちが揺れ動く。今すぐ、ここから離れて戻らないと──あの人が、泣いてしまう。


 チクリ、と胸が痛んだ。


 顔も、名前も、霧の向こうで忘れてしまいそうになるけれど、胸の奥にある思いが熱くなる。その人は我が儘で、甘え上手で、感情豊かですぐに笑って、泣いて、怒って……私の機微にすぐ反応して、自分のことのように慮ってくれる。


 モフモフで手触りが良くて、シトラスの良い香りがする。抱きつくと安心するし、モフモフは最高で、ブラッシングも──あれ?

 呪われていた──そう、呪われていたから、最初は言葉もわからなかった。でも可愛くて、人懐っこくて、私を必要としてくれた。

 公爵令嬢でも、次期王妃でもない、魔力無しの、ただの女の子の私に頼ってくれたんだった。


「ユティア、私と結婚をして王妃となって支えて欲しい」


 アドルフ様の熱の入った言葉は、本来は嬉しいはずなのにちっとも心が動かない。ずっとそう言って欲しいと望んでいた。

 また昔のように温室でお茶をして、一緒の時間を過ごしたいと願っていた。

 でも、私はこの場所を守ることだけに固執して、アドルフ様の傍にいたエリー様や他のご令嬢に割って入る勇気は無かったし、諫めるほどの執着も薄れていた。

 最終的にそれらを壊したのはアドルフ様で、一度ひび割れた関係は元に戻らないわ。


「その申し出、お断りさせて頂きます」

「ユティア?」

「私の居場所はもうここではないのです。温室という鳥籠から私を飛びただせてくださって、ありがとうございました。それがなかったら私は──」


 そうだ、私はあの方と出会わなかった。


「私はリア様と出会っていなかったのですから」


 リア様の名前を思い出した瞬間、温室の窓硝子が粉々に崩れ、温室だった空間に戻った。

 テーブルもソファもめちゃくちゃで、植物は枯れて噴水の水もとまった──温室だった跡地だ。

 そして微笑んでいたアドルフ様は途端に顔色を変え、あっという間に骸骨になって朽ちて倒れてしまった。


「あ、アドルフ様!?」

「あーーー、もう! どうして王子様のプロポーズを受け入れなかったのよ?」

「そうよ! 受け入れていたら貴女は幸せだったのに! もう、彼の魂を定着させるの、結構大変だったのよ!」

「そのとおりです。邪竜様の支配するこの国で、幸福でいられたのに……。どうしてあの愚かな王を選んだのですか?」


 温室の再現は、魔女様たちの魔法だったのね。それぞれ黒の三角帽子を被って黒を基調としたドレス姿、ワンピース、襟元まで締めた軍服風と三者とも奇抜な服装をしていた。しかし顔は魔女の宴と同じで、よく見えない。


「魔女様? 邪竜の支配する……国?」


 話が見えない。リーさんの話的には王国は傾いていて、邪竜の眷族がいるとも言っていた。もしかしなくても魔女様たちまで邪竜の支配下に!?

 だとしたら非常に不味いのでは?

 だってあのリア様を呪えるほどの人物だもの!


「わ、私は……こんな幻想よりも、リア様との生活が一番なんです」

「あらそう」

「残念だなぁ。結婚式までして、あの王に見せつけたかったのに!」

「それならあの王には、別の絶望を味合わせましょう」

「え」


 次の瞬間、足場が崩れ、僅かな浮遊感の後──落下!

 王城に、というか温室にそんな作りはなかったはず!? 真っ暗な中をひたすら長い滑り台から下へ、下へと落ちていく。


「わっ!」


 途端に視界が広がり、オレンジ色の街灯と煉瓦の敷き詰められた場所に飛び出す。固い地面にぶつかると身を固めていたが──。ボフッ、と柔らかいモフモフがクッションになったおかげで、怪我一つない。


「ふう、こんな所に大きめなクッションがあるなんて……」

「コケ!?」


 そう思った刹那、目の前にコカトリスの鳥頭と目が合う。数秒、見つめ合った後、尾の蛇が「シュー」と私の頬を舐めたことで、ぞわぞわっと産毛が逆立つ。


「にょのおおおおおおわああ!?」

「コケケケケケケッ!」


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