予兆②
1ヶ月前。それがカサネたちの転換点であった。カサネたちの大学周辺に、怪しい薬のブローカーが現れた。彼は「赤い薬」と呼ばれる薬を、超能力者・ギフテッド、非能力者・ニュートの違いを問わず、力を求めるものに等しく与えていた。また、「赤い薬」を口にしたものは、すべて男の支配下に置かれ、彼の戦力として用いられた。
しかし、「赤い薬」には重大な副作用があった。ニュートの場合、体の内部から肉体をギフテッドのものへと作り変える作用を持つため、強い衝撃を受けたり、薬の濫用を続けたりすると、肉体を構成する物質が崩壊してしまう。体は砂となり、二度と元に戻ることはない。
危険性の高い薬物を配布した、彼の目的は一つ。「人類を作り変える」ことであった。「赤い薬」の配布はその目的達成のための行動に過ぎなかった。
まず、「赤い薬」を分け隔てなく配ることで、人類を等しくギフテッドに変化させていき、ギフテッドが持つ超能力が次第に暴走し始めるのを待つ。次に、赤い薬の力を抑制する薬品を流通させ、その薬に適応し、ギフテッドの超能力を抑える、免疫を獲得したものを上流階級、抑制薬に適応できず、頻繁に注射を繰り返さなければならないものたちを、下層階級とし、強固な管理社会を構築する。それぞれの肉体の問題による階級であり、知識や貧富の差などは関係のない、純粋な生物としての能力差で決められる社会を最終的な目標とした。
しかし、その目論見は、カサネたちによって封じられることとなった。カサネは、ブローカーと対話し、そして彼の計画がある一人のギフテッドへのコンプレックスであったことを見抜いた。カサネはお人好しだった。人のコンプレックスを、助けを求める声と等しく扱ったのだ。彼はもう一度、コンプレックスを感じていたギフテッドと言葉を交わすことができた。
それが、ジローだったのだ。
ブローカーの名は、霧島イチロウ。大企業・霧島製薬グループの御曹司であり、ギフテッドの相互扶助団体『MEDUSA(Medical Environment of the Duty for Unifying Sophisticated Ability:洗練された能力を結集するための医療的環境)』を立ち上げた人物である。
幼少時、ジローと共に育ち、常にその能力差を比べ続けられた。しかし、彼はジローに恨みを抱くことはなかった。寧ろ、ジローが目論んでいる霧島壊滅の計画へ手を貸していた時期もあった。それまで良好だった関係は、イチロウが霧島に利用されたことで離別へと至った。ふたりは共に守ると誓った妹・霧島アンナを守り切ることができず、彼女を怪物へと変貌させてしまったのだ。
文字通り、「怪物」へと。
薄暗い空間に、4つの面が柱にかけられている。それぞれが昆虫のモチーフであり、中央にはカブトムシ、その左隣にはクワガタとトンボが、右隣にはカマキリが据え付けられている。
「イチロウが来ておらんな」
カブトムシの仮面から声が鳴り、同時に声に合わせて、仮面の目の部分が光りだす。
「あなた、イチロウはこの間亡くなったばかりよ」
クワガタの目も光る。
この仮面が並べられた異様な空間は、通信のための空間。本来はここに人が入り、遠隔でもコミュニケーションを取ることができるための部屋である。主として、イチロウが使っていた空間である。
「……そうだったか」
「死んだ奴のために、いつまでもこの部屋を置いておく必要はねえと思うぜ、オヤジ」
いけすかない高い男の声が、カマキリの面から聞こえてくる。
「アイツはそもそも、ジローとつるんでた。霧島の未来を考えたら随分好都合な話だろ?スッキリしたもんだぜ、邪魔者が居ねえとよ」
「口を慎みなさいゲンイチ。お父様の前だわ」
カマキリの面からくつくつと笑い声が流れ、次第に大きくなっていき、部屋に響く。
「黙れってえのか、次期総裁によお」
「ゲンイチ!いい加減にしなさい!」
クワガタが声を荒げた次の瞬間、部屋の中に、ヒタヒタと音が響く。足の裏の皮膚が、地面に当たり、剥がれを繰り返す音。足音の主は部屋の中央に向かって歩み続ける。仮面がかけられた柱の間を縫うように、足音の主は進んでいく。薄暗い部屋の中で、仮面には光が当てられている。その光が、足音の主を照らす。
そこには、何も纏っていない少女の姿があった。年相応の健康的な肉体が、光に照らされ、凹凸のコントラストを露わにしている。
少女は、光に向かって手を伸ばした。しかし、そのまま地面にグニャリと背中から倒れ込んでしまう。
次の瞬間。
少女の体から無数の針が飛び出す。次々と飛び出した針は少女の体を包み、あっという間にヤマアラシのような相貌へと変化させた。飛び出した針の反動で起き上がった少女は、獣の構えで仮面たちを睨みつけ、何度も咆哮した。
カマキリの面から、不敵な笑いが聞こえてくる。
「イチロウがやった、薬物投与による人造ギフテッド計画は失敗した……やっぱ、小手先じゃあダメなのさ。人間そのものを改造しなきゃ」
ぶつり、ぶつりと仮面から千切れるような音が鳴る。それぞれの仮面の目からは光が消え、それぞれが掛けられた柱が、床の下に潜っていく。
針の少女は立ち上がり、未だその場にあるカマキリの仮面に向かって吠え続けている。
「ハハハハハ、それは俺じゃあねえぞ」
先ほどまでのいけすかない声が、仮面からではなく、部屋の中から聞こえる。それも、機械を通していない、純な「声」として。
針の少女は、声の主を噛み殺す勢いで振り向き、飛びつこうとする。しかし声の主は一歩も動かず、ただ片手を上げただけだった。
彼の手にあったのは。
アクセス・ドライバー。
眩い赤い光が、部屋全体を包む。先ほどまで少女の体を包んでいた幾本もの針は、彼女の体の中へ吸い込まれるように消え、そして一糸纏わぬ姿を現した。そして、そのまま、固い床へと倒れ込んだ。
声の主が、少女に近づく。小洒落たスーツに身を包み、顎髭を伸ばし、長い前髪を右に流した男。指の背で、少女の肌を撫でる。少女は、安らかな表情で眠っている。端正に整った顔で、その髪は美しい光沢を放っている。
「イチロウ……お前とジローのアンナは、今や俺の番犬だ。お前が望んだ世界は、俺のやり方でしか達成できねえよ」
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