1-18.兄弟

「助けていただき、感謝いたしますわ」


 長い黒髪を二つに緩く束ねた少女が真菜に肩を支えられたまま、憔悴しつつも気丈な様子で頭を下げる。五十鈴媛いすずひめと思しき少女は間に合わせの衣服をまとっただけでありながら、はやては溢れ出る気品のようなものを感じた。


 その傍らに立つ沙々羅が苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。


「無事で何より。それで沙々羅よ。手遅れとはどういうことか」

「それに関しましてはわたくしからお話しいたしますわ」


 皆の視線が五十鈴媛へと集まる。


「あのお方は、薙様は、いつ鬼と化してもおかしくないほど、邪に捕らわれておいでですわ」


 溢れ出る邪をはらった程度では既にどうしようもないほど、薙は危険な状態であると五十鈴媛が告げる。彦五瀬はその凛々しい顔を苦渋に歪めながら沙々羅に見解を尋ねるが、沙々羅は五十鈴媛の方が他者の邪を見る力に長けていることを理由に、自身の想定よりも鬼化が進行していたことを謝罪した。


 沙々羅と五十鈴媛の真摯な視線が彦五瀬に注がれる。それは即ち、彦五瀬へ決断を迫るものだった。


「その方ら。薙が鬼と化す前に決着を付けろと申すか」

「はい。恐れながら……」

「薙様はお強い。そんな薙様が濃密な邪に支配されて鬼と化せばどうなるか。この地の長に連なるあなたならば、それをよくご存じのはずですわ」


 出雲の姫巫女と東のヤマトの巫女。その双方が同じ見解というのであれば、彦五瀬も無視するわけにはいかなかった。颯は固唾を呑んで3人を見守る。彦五瀬の腹心である思金おもいのかねも口を挟むつもりはないのか、黙したままあるじの背を見つめている。


手力男たぢからおよ。信の置ける者を集め、館の兵をまとめよ。命に従わぬものは捕らえ、一人も逃がしてはならぬ」


 彦五瀬の凛とした命令に手力男は無言で頭を下げ、即座に地上への階段へと向かった。


「思金、策を立てる。沙々羅も共に参れ。颯と真菜は五十鈴媛と女たちを頼む。後に我が手勢を付けよう」


 その場の皆が応じ、動き出す。颯はそのまま五十鈴媛や助け出された女性たちの世話役となった女中と一緒に、彦五瀬の背中を見送った。男の背中には悲痛さと確固たる意志がみなぎっていた。


 数刻後。偵察に出た彦五瀬の手の者から、熊襲を散々に追い散らした薙の帰還の報が伝えられた。






 迎えに出た兵たちと合流した薙が帰還し、館に足を踏み入れた途端、すぐ後ろに控えていた手力男が門を閉じて薙の兵士たちを締め出した。手力男が門のかんぬきを守るかのように仁王立ちし、門の脇に用意してあった大板を盾とした。


「兄上。これはどういうことです」


 館の門の内側で、薙が周囲を見渡してから彦五瀬を真っ直ぐに見つめる。その瞳には普段の余裕の色は見受けられず、果てなき怒りの炎が灯っていた。


 正面に立つ彦五瀬の左右には扇状に薙を取り囲むように彦五瀬の手勢が並び、弓矢を構えている。そのすべての照準は薙に合わされていた。


「我が最愛の弟、薙よ。五十鈴媛や女たちへの所業を悔い改める気はあるか」

「兄上。誰に弓を引いているのか、わかっているのですか? 私はこの高千穂を統べる神の御子ですよ?」

「邪に捕らわれし者を支配者とすることはできぬ。そなたが身の内の邪を祓えぬのであれば、日の神に連なる者として、憐れな弟の魂を人の内に天つ国あまつくにの祖の下へ帰さねばならぬ」

塩筒之書しおつつのしょに記されし、日の神の御子は私だ! 熊襲を滅ぼし、東の楽園を手中に収めるのは、この私だ! 両親の仇も討てない腑抜けな兄上などではない!」


 兄弟の想いは平行線のまま、交わることはない。薙の全身から、黒いもやが立ち上る。激高した薙が、刃の反り返った太刀を抜き放った。


生太刀いくたち


 彦五瀬と薙の祖父、英傑スクネが鬼の女王を討った際に用いた由緒正しき太刀で、使い手の意志を瞬時に汲み取ってその動作を助けると言われている。


「もはやこれまでか……。放て!」


 彦五瀬の号令で一斉に薙目掛けて矢が放たれる。彦五瀬自身も祖母より受け継いだ弓で薙の心臓を狙った。


生弓矢イクユミヤ


 彦五瀬と薙の祖母、英傑トヨが鬼の女王を討った際に用いた由緒正しき弓矢で、使い手の意志を瞬時に汲み取って狙い通りに誘導すると言われている。


 降り注ぐ矢に交じり、生弓矢の一射がうなりを上げて薙の体へと吸い込まれるかのように向かっていく。しかし。


 薙が生太刀を振るい、すべての矢を打ち払った。


「放て!」


 再びの号令で兵士たちが矢の雨を注ぐ。薙はまたもすべての矢を切り払うが、僅かに遅れて放たれた生弓矢の二の矢は薙の急所ではなく、生太刀を持つ手を狙っていた。


「ぐっ……!」


 薙の口から呻き声が零れ、生太刀を取り落とす。直後、三の矢が鉄製の短甲を貫き、薙の心臓に突き刺さった。


「ふ、ふざけるな……。この私が……!」


 薙が震える手で胸の矢を掴み、そのまま力任せに抜き取った。鮮血が飛び散る、はずだった。


「あれは……!」


 彦五瀬が狼狽する。血の代わりに薙の胸の穴から勢いよく飛び出したのは、どす黒い靄だった。


 靄が薙の全身を覆い隠す。邪が、薙のすべてを侵していく。直後、黒が膨れ上がった。


「手を止めるな! 放て!」


 彦五瀬と兵士たちが再度矢を射かけるものの、黒き靄は矢を受け付けない。唯一生弓矢だけが僅かに突き刺さったが、黒が弾けると、一緒に弾け飛んだ。


 黒い靄が晴れたとき、薙は鬼へと変じていた。まだ幼さを残した面影は露と消え、筋骨隆々の浅黒い異形の巨漢がたたずんでいた。


 薙だったものの頭からは2本の角が反り立ち、口の端からは牙が伸びている。短甲が吹き飛ぶほど膨れ上がったその体は優に身長3メートルを超えていた。


「ガァアアアア!!」


 どす黒い咆哮が大気を震わせる。


「矢を! 鬼を世に放つわけには参りません!」


 彦五瀬の後方で様子を見守っていた沙々羅が叫んだ。その声に反応したのか、鬼の狂気に満ちた目が沙々羅に向いた。


「放て! 放て!」


 彦五瀬が命じながら生弓矢の弦を引き絞る。


 兵士たちの放った矢を鋼鉄のような皮膚で弾きながら、巨躯が猛然と迫っていた。

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