1-17.検分

「真菜まで来なくて良かったのに……」

「兄さん、まだ言ってるの?」


 彦五瀬の手勢と一緒に薙の館へ向かう途中、はやてがぼやくと真菜が呆れ顔で応じる。


「兄さんが行くなら私も行くのは当然でしょ」


 真菜は迷いなく言い切るが、颯は言い知れぬ不安を抱えていた。彦五瀬によると未だ薙は撤退する熊襲を追撃していて館にはいないようだが、高千穂一の力自慢の手力男たぢからおが残っているという話もある。


 薙の館に残った兵を悪戯に刺激しないように彦五瀬は少数の手勢のみを連れているものの、それでも薙の留守中に館に踏み入らんとすれば争いに発展しない保証はない。


 当然、そんな中へ真菜を連れていくことを良しとしなかった颯だったが、伽耶と一緒に彦五瀬の館に残るよう言う颯を、真菜は先と同様に一蹴したのだった。


「颯様。真菜様を矢面に立てるようなことはいたしません」

「ほら。沙々羅さんもこう言ってるし、兄さんは心配し過ぎだよ。心配してくれるのは嬉しいけどね」


 最後にウインクまでされてしまえば、颯はそれ以上、何も言えなくなってしまう。颯が肩を脱力させると、沙々羅が控えめな笑い声を上げた。


「本当に仲がよろしいんですね」

「そ、それより、沙々羅さん。もうお体は大丈夫なんですか?」

「はい。秘伝のお薬のおかげで傷跡も残らず、伽耶様をはじめ、こちらの方々には本当に感謝しております」


 颯自身が何かしたわけではないが、颯は微笑む沙々羅の様子に胸を撫で下ろす。沙々羅の本心としては供回りを失った悲しみや辛さはあるだろうが、世話をしていた伽耶や真菜、そして颯にもマイナスの感情を垣間見せることはほとんどなかった。


 そんな沙々羅を、颯は強い女性だと思った。


「それにしても、兄さん。クラスの女子とは、ろくに話せないのに、飛び切り綺麗な沙々羅さんとは話せるんだね」

「そ、そんなことはないけど……」


 颯は慌てて否定しつつ、沙々羅の他者の心を落ち着かせるような微笑みのおかげではないかと考える。真菜の言う通り、普段なら緊張しすぎて全然会話にならないような美人を前にしても、割と平常心で話せているような気がした。


「沙々羅さん。こんな兄ですけど、よろしくしてやってください」

「ちょっと、真菜。何言ってんの!」

「そうですね。颯様には色々とお見苦しいものをお見せしてしまったことですし、こちらこそお願いいたします」

「おっ。沙々羅さんも乗り気な感じ?」

「待て待て。真菜、冗談に決まってるだろ。沙々羅さんも揶揄からかわないでください」


 颯が慌て、真菜と沙々羅が楽しげに笑う。そんな穏やかな暫しの時が過ぎ、彦五瀬ら一行は薙の館を視界に捉えた。


 館を囲う木製の壁にはめ込まれた大きな門は閉じられ、その前に一人の大男が仁王立ちしている。その手には大まさかりが握られていた。


「手力男。ゆえあって薙の館をあらためねばならぬ。門を開けよ」


 彦五瀬の凛とした声に、手力男が大鉞の石突を地に叩きつけることで答える。それはこの場を退く意志のないことを、どのような拒否の言葉よりも雄弁に語っていた。


「五瀬様。ここは私めに……」


 騎乗した彦五瀬に馬で並んだ思金おもいのかねが下馬し、一人、手力男に歩み寄る。颯はハラハラしながらその様子を見守った。高千穂一の知恵者である思金も、武力では手力男に対抗できないことは火を見るより明らかだった。颯は手力男が心優しき老人に手を上げないよう祈る。


「手力男よ。お主が忠に厚いことはこの老体も知っておる。しかし、その忠とはしゅの成すことを全て肯定することではない。主が間違った道へ進まんとするならば、例え勘気に触れてその首を斬られようとも、その道を正すことこそが本当の忠義というもの」


 穏やかな語り口の中に、颯は確固たる信念を感じた。手力男は視線を思金に固定したまま、微動だにしなかった。


「汝に問う。おのが主の行いを、真に誇れるか否か」


 手力男の鋭い眼光が彦五瀬に向いた。そして、遥か彼方、ここにはいない自らのあるじへと。


 暫しの逡巡の後、手力男が自らの手で門を押し開け、慌てる薙の館の兵士たちを制する。


「では五瀬様」


 思金に促され、彦五瀬が騎馬を進ませる。颯や沙々羅たちがそれに続く。害意がないことを薙の兵士たちに示すため、彦五瀬の手勢は門の外に残った。


 下馬した彦五瀬が命じるまでもなく、手力男が先導する。あるじの留守中の館に押し入る者たちを咎めんとする兵士もいたが、手力男の威圧感と彦五瀬の王者の貫禄を前に引き下がった。


 一行は地下への階段を下っていく。松明に照らされた石造りの薄暗い地下には、いくつもの牢屋が立ち並んでいた。


「これは……」


 思金が呟き、手で目を覆う。彦五瀬が眉間にこれでもかと皺を寄せ、颯と女性陣も言葉を失った。地下牢には幾人もの女性たちが何も身につけないまま、ある者は横たわり、またある者は力なく座り込み、そしてある者ははりつけにされている。


「手力男! 今すぐに皆を解放し、衣を持て!」


 彦五瀬の叫ぶような命令の言葉は、隠しきれない怒気に溢れていた。颯はハッとして目を逸らす。


 すぐに手力男が女中を連れて戻ってきて、牢屋の鍵を開ける。女中の手には抱えきれんばかりの衣服があった。


「沙々羅、真菜。そなたらも手を貸してくれ」


 彦五瀬に頼まれるまでもなく、沙々羅も真菜も動き出していた。二人は女中から女性の衣服を受け取ると、異臭のする牢屋の中へ迷いなく入っていく。


 颯はまたしても何もできないことを歯がゆく思ったが、いくら緊急時とはいえ、不必要に女性の裸を見るわけにはいかなかった。それでも女性たちが衣服をまとって牢屋を出てくるときには手を差し伸べたのだが、幾人かにはそれすらも拒絶されてしまった。仕方がないとは思うものの、颯は無力感を覚えた。


「彦五瀬命、颯様。五十鈴媛がおられました」


 沙々羅に呼ばれて声のした方を向くと、真菜に肩を抱かれた少女がいた。それはかつての沙々羅のように磔にされていた女性だった。


「薙様は……薙様は手遅れやもしれません」


 悲痛さに満ちた沙々羅の声が、薄暗い地下牢に木霊こだました。

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