1-19.対鬼
鬼と化した薙が沙々羅に迫る。彦五瀬が鬼の注意を引き付けようと
「くっ」
彦五瀬が生弓矢を投げ捨て、腰に吊るした直剣を引き抜いた。彦五瀬はそのまま沙々羅と鬼の間に分け入る。周りの兵士たちも次々と矢を射ていたものの、彦五瀬と鬼が近付けば、その手を止めざるを得なかった。
「五瀬様!」
兵士が悲鳴に似た声を上げる中、彦五瀬が正面から剣を振り下ろす。彦五瀬と鬼の距離がゼロとなった。鬼が体の前で両腕をクロスさせ、剣の一撃を受け止めていた。
「ガァアア!」
一
「五瀬様をお守りしろ!」
周囲の兵たちが各々に
体勢を立て直した彦五瀬が兵士たちと連携を取りながら、鬼に再び戦いを挑む。
颯がいるのは外壁の門から真っ直ぐ進んだ館の正門の陰だ。その傍らには真菜もいる。
「兄さん、逃げた方がいいんじゃ……」
真菜が颯の袖をやんわりと引っ張った。彦五瀬からは、もしものときは
そして今、誰の目にも劣勢なのは明らかだった。薙の鬼化を止められず、彦五瀬こそ健在だが、その手勢の多くが倒れ伏している。いくつもの命が颯の目の前で消えていく。
「颯様、真菜様。こちらへ」
館の中から思金が手招きする。思金は二人に逃げるよう促すが、颯の足は地面に縫い付けられたかのように動かなかった。恐怖で足が竦んだわけではない。いや、恐怖はもちろんあるが、何もできないまま逃げ出すことを、心のどこかで颯は拒んでいた。
これまでの人生では考えられないような現実離れした光景から目が離せない。
「兄さん……」
真菜の呼ぶ声を頭の片隅で認識しながら、颯は男たちの後方で立ち尽くしていた少女が動くのを見た。
地獄絵図とも言える世界の中で、黒髪の少女は逃げ出すことなく武器を取った。少女が手にしたのは地面に放り出されたままの生弓矢だった。それを目にした瞬間、颯の頭に天啓のような閃きが走った。
颯が駆け出す。戦場を大回りして外門へと向かう。逃げるためではない。真菜の悲痛な叫びを背に、颯は走る。剣を習い始めたばかりの颯が戦う助けになるかもしれないものが、そこにはあった。
全力疾走から一転して急ブレーキをかけた颯の足の裏が、地面を滑って土埃を巻き起こす。
「頼む……!」
祈るようにして颯が拾い上げたのは、一振りの太刀。高千穂に隠れ住んだ一族の長に受け継がれてきた神刀にして、使い手の意志を汲み取ってその動きを助けるという
颯は
「これなら……!」
手応えを感じ、颯は戦場を見据えた。震える足を、左の拳で叩きつける。生太刀を両手で握り直して、じりじりと近付きながら隙を窺う。
いくら生太刀があるとはいえ、彦五瀬や手力男が敵わない相手に普通に戦って勝てるわけがないことは颯も理解していた。それでも剣を手にしたのは、皆が勝機を掴む可能性を少しでも高めるため。その鍵は沙々羅が握っていると颯は考えていた。
颯に霊感などの特殊な感覚はないが、沙々羅の構えた生弓矢の
颯は沙々羅と鬼が一直線上になるように近付く。
彦五瀬が直剣を、手力男が大
「ぐっ……」
颯の口から、くぐもった声が零れた。生太刀の先端は1ミリも突き刺さることなく、颯の両腕をとてつもない衝撃が襲った。生太刀を取りこぼさなかったのが奇跡だった。
鬼が首を回し、その鋭い視線が脇腹を、そして颯を捉えた。鬼が大鉞と直剣ごと、手力男と彦五瀬を捻り倒す。颯が死に物狂いで生太刀を振りかぶるが、振り下ろすより早く鬼が体ごと振り返った。
鬼が極太の腕を伸ばし、生太刀の刀身を掴む。直後、矢が風を切る音が聞こえた。鬼の人間離れした顔が苦渋に歪む。鬼が怒りに任せて生太刀を投げ捨て、颯の体が地に投げ出される。
いくつもの風切り音が続くが、鬼は倒れることも振り向くこともなく、視線の中心に颯を捉えていた。その瞳には憎悪の炎が燃え上がっていた。
「颯! 逃げろ!」
彦五瀬と手力男が傷付いた体で鬼の背に攻撃を加えるが、鬼は怯まない。颯は何とか立ち上がったものの、今度は恐怖で足が竦んでいた。生まれたての小鹿のように両の足はぶるぶると震えるだけで、颯に意図通りに動いてくれない。
「颯!」
鬼が腕を振り上げる。颯が呆然と見上げる先で、漆黒の爪がキラリと輝いた。鬼の口の両端が嗜虐的に吊り上がる
颯はそれほど薙に恨まれているとは思っていなかったが、同時に、暴力と欲望の権化と化した今、どのような理由も理屈も必要ないのだと本能的に察した。
唐突に、死の臭いが颯の鼻をつく。ふと、以前にも似た臭いを、いや、もっと強烈な死の気配を知っている気がしたが、颯は思考を手放した。目前に、黒き爪が迫っていた。颯は思わず目を閉じる。
「兄さん!」
大好きな妹の声が聞こえた。最期の時に真菜の声を聞けたことが唯一の救いのような気がした。颯の体が横に倒れる。
どうか真菜だけは無事逃げ延びて、そして両親の待つ現代に戻ってほしい。横倒しになりながら、そう考えるだけの時間があることが、とても不思議だった。
「真菜!」
彦五瀬の叫んだ名は、颯の予期していたものと違っていた。
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