1-3.落雷
「小降りになるまで待とう」
『見つけた』
豪雨の中でも確かに聞こえた。これまで聞いたことがないような性質の声。それは悲願を達成した歓喜に打ち震えるようでありながら、それでいて積年の怨みの篭ったような呪詛の言葉であるようにも思えた。脳に直接入り込んだかのようなその言葉は、颯の中を無遠慮に駆け巡る。
心臓が“どくん”と一際大きな音を立てた。颯は自分自身から発せられた音に戸惑いを覚えた。心の中心で生じた音と共に、自分という存在が世界中に伝播していくかのように感じられた。
颯は顔を横に向ける。それに気付いた真菜が「どうかしたの?」と目で訴えてきた。真菜ではない。
その時、天を裂く轟音と共に、一筋の閃光が走った。
落雷。そう直感で判断したときにはもう手遅れだった。いとも簡単に日向御子神の社を破壊した雷は、残骸を辺りに撒き散らし、燃え上がらせた。背後から砂塵を含んだ爆風が襲い、間近で太陽が生まれたかのような眩い光が辺りを包み込む。颯は咄嗟に真菜の体を抱き寄せ、庇うように覆い被さった。爆風が収まり、光が消えた後、颯は雷雨の中でも消えることなく激しく燃え上がる炎を見た。
颯は身の危険を感じた。雷のせいだけではない。本能が、ここにいては危険だと告げていた。
颯は真菜を抱き起こすと、手を取って駆け出す。後ろから真菜が大声で何か叫んでいたが、颯の耳には届かなかった。ぬかるんだ土に足を取られそうになりながらも、何かに急き立てられるように一心不乱に外の世界を目指す。足場の悪い山道は想像以上に危険だった。傾斜の急な岩の階段で足を滑らせれば、得体の知れない恐怖から解放される代わりに命を落としかねない。そんな道を文字通り駆け下りた。
「止まって! 兄さん、止まってってば!」
ふと気が付くと、真菜の制止の声が聞こえた。いつの間にか、雨が止んでいた。心に纏わり付いていた不安も恐怖も、すっかり姿を消している。
「もう! 雷には確かに驚いたし怖かったけど、その後の方がもっと怖かったよ。途中で転落しなかったのが不思議なくらい」
「ご、ごめん……」
我に返って気が抜けたのか、颯はその場にへたり込んだ。
「ちょ、ちょっと、兄さん、ズボンが泥でぐちゃぐちゃになるよ」
真菜が慌てるが、そんなことはどうでもよかった。むしろ、泥の感触が生きていることを確かなものとして感じさせた。目の前に現れた真菜の濃紺のジーンズが、先から膝の上まで跳ね返りの泥で茶色く染まっていた。
「それにしても、どうなってるんだろうね」
真菜が不安げに周囲を見回す。辺りは夜の闇に支配されたかのように薄暗かった。雨雲は未だ上空に留まっていたが、それだけでは納得のいく説明はできそうになかった。
颯は、幼い頃、真菜と並んで見上げた日食の空を思い出した。もしかしたら雨雲の上では皆既日食が起こっているのかもしれない。見えない太陽コロナの真珠色の淡い光を想像しながら、そんなことを思った。
「とりあえず、山から出よう」
「うん」
颯は立ち上がり、一歩一歩足場を確認しながら真菜を先導して、ゆっくりと確かな足取りで登山口を目指した。
落雷のことを思い出し、こういった場合、警察と消防のどちらに通報すべきなのか頭を悩ませる。普段想像もしないような経験をした後だけあって、現実的なことに頭を使えるのが嬉しかった。結局、とりあえず両親に連絡しようと思い至り、スマートフォンを取り出してみたが、アンテナは一本も立っていなかった。
「あ、兄さん、あれ!」
下だけを向いて歩いていた颯の耳に、真菜の浮かれた声が届いた。顔を前方に向けると、十数メートル先に小さな石造りの鳥居があった。見覚えのある登山口の鳥居。その先には
入山受付をしている髪を後ろで束ねた巫女に襷を返し、そこで売られている
「やっと戻ってきたね」
溜息混じりに真菜が言った。その声は明るく、安堵の気持ちが伝わってくる。
「ああ。巫女さんになんて言おうか」
「きっと驚くよね。あ、でも、この格好で帰るのはちょっと嫌だなぁ。お店とか、入店拒否されそう」
真菜が首を下に向け、自身の格好に目をやった。颯は自身と真菜の姿を交互に眺める。颯の白いTシャツに真菜の黄色いキャミソール、二人のジーンズはもちろん、腕も顔も、あらゆる部分が汗と雨、泥で汚れていた。
「神社でシャワー借りられないかな」
「どうだろう。とりあえずスマホが使えるようになったら家に連絡して、着替えを持ってきてもらおうか。で、せっかくだから宿取って、皆で一泊してもいいかも。あ、父さんは仕事か」
「そうだね。母さん驚くだろうね。無事でよかったって泣いちゃうかも」
静かな山に、二人の笑い声が小さく響いた。
二人が同時に鳥居をくぐると、柔らかな光が二人を包み込んだ。あまりの眩しさに、颯は反射的に瞼を閉じた。
その後、目をゆっくりと開いた颯の前に現れたのは、暗闇の中の岩肌だった。
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