1-2.雨雲
「はぁ、はぁ……。真菜、頂上、まだ?」
「んー……後ちょっとじゃないかな」
「ちょっとって、どのくらい?」
事前の情報によれば、一般的に往復で2時間程度だという。登り始めたのが午前10時前後だから、時間的にはそろそろ着いても良い頃合だ。
「知らないよー。私だって初めて来るんだから。でも、きっともう少し」
疲労で歪む颯の表情とは打って変わって、真菜は相変わらず笑顔を絶やさない。颯は再びスマートフォンに目を落とした。頭の中で帰りが何時くらいになるのかシミュレートを試みる。午後一時前には下山できそうだと目安を立て、登りの後に待つ下りという事実に頭が眩んだ。それでも颯は前向きに考えてみた。疲れれば疲れるほど、昼食で予定している名物、三輪素麺が美味しく頂けそうだと思った。
「その言葉が正しいことを期待するよ――って、あれ?」
その時、おかしなことに気付いた。
「え、何?」
「いや、スマホの電波が……」
颯は手にしたスマートフォンから目が放せなかった。電波の表示が、圏外から三本まで、ものすごい速さで推移していた。
「山の中だし、安定してないだけじゃない?」
真菜は全然気にする様子を見せない。確かに真菜の言うことはもっともではあるが、いくらなんでも尋常ではない気がした。目まぐるしく変化する電波の量に、表示が追いついていないように感じられた。颯は不意に心に違和感を覚え、辺りを見回す。そこには、何千年も不変であるかのようにすら思える山中の緑が広がっていた。
だが、やはり何かが違う。心の中に、黒い不安が広がっていくように感じた。
「兄さん、気にしすぎだよ。さ、早く行こうよ。きっと
真菜がそう言いつつ、駆け上がるように頂上へ続く細い一本道を登っていく。
「ほら、兄さん。早く早くー」
5メートルほど先の真菜が手招きをした。
「あ、ああ。今行く」
真菜に導かれるように歩を進めるが、どうにも気分が晴れなかった。
「なぁ、真菜。頂上に何があるんだ?」
「えっとね、日向御子神を祀る社があるんだ。撮影禁止だから当然見たことないんだけどね」
真菜が、えへへと極まり悪そうに頭をかいた。
「その日向御子神って、どんな神様なんだ?」
「あ。興味湧いた?」
一歩先を歩く真菜が、ずいっと顔を寄せてきた。真菜は、はちきれんばかりの笑みを浮かべていた。それは、妹でなければ一目で惚れてしまいそうなほど魅力的なものだった。
颯は昔から真菜の笑顔が好きだった。物心ついた頃から二人はいつも一緒だった。時に揶揄の対象とされたこともあり、中学高校と進むにつれて徐々に一人一人の時間が増えていったが、それでも、成績優秀の真菜がわざわざランクを下げてまで颯と同じ高校に進学し、夏休みにこうして二人で日帰り旅行に出かけるくらいには仲が良かった。
どうせなら家族で行こうとやんわりと主張し、きっぱりと真菜に拒否された両親がかわいそうにも思えたが、颯にも二人だけの時間というものが貴重なものに感じられた。
颯は後ろめたさを感じて僅かに顔を伏せる。真菜と話していないと黒い不安に呑み込まれそうで振った話題だった。
日本神話に関して言えば、颯は小学生の頃、真菜に勧められて古事記の漫画を読んだことがあるくらいで、特に興味があるわけではなかった。古事記の内容にしても、冒頭の部分で登場した裸の男女、特に女性の裸身に恥ずかしさを感じたことしか覚えていなかったりする。
「日向御子神はね、実際よくわからないんだ。昔、
唐突に説明が途切れた。真菜に目をやると、手のひらを上に向け、空を見上げていた。釣られて颯が視線を上に向けると、空から太陽が消えていた。
颯はようやく違和感の正体に気付いた。なぜ気付けなかったのか不思議でならなかった。いつの間にか颯らの頭上には黒々とした雨雲が広がっていたのだ。日の照り返しがなくなり、辺りの緑が深くなったように感じられた。
「あんなに晴れてたのに……」
真菜が恨めしそうに雨雲を見つめる。小雨がぱらぱらと降り始めていた。
「急いだ方が良さそうだね」
二人は頷き合い、足を速めた。
山道がなだらかになり、頂上が近いことを二人に示す頃には徐々に雨脚が強まり、頂上に辿り着いた時には土砂降りの様相を呈していた。それまでの暑さが嘘のように冷たい雨が肌を打ち、着衣水泳の授業の直後のように全身を濡らした。
頂上には、堀のような小さな池の中央に、小ぢんまりとした古びた社があった。中に入れないようにするためか、それとも落ちないようにするためなのか、池の周りを柵が囲っていた。正面向かって右手側に、どこの神社にでもあるような木製の立て看板があり、それが日向御子神を祀る社であることを示していた。
激しい雨の中、二人隣り合って社の前の石段に腰を下ろす。雨宿りできるような場所は見当たらなかった。
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