第71話 勘違いさせないで

 オープン初日の昨日、私は最後の最後に大失態してしまった。疲れていたとはいえ、まさかクリストフとお茶しながら寝てしまうなんて。


 だってだって、仕方なかったのよ。クリストフの声を聞いているうちに、子守歌みたいで心地よくなってしまったんだもの。それに前日は興奮してなかなか寝付けなかったから、寝不足だったことも言い訳に付け加えさせて!


 しかもルーシーの話によると、私はクリストフに抱き上げられ、彼の馬車でカーライル邸へ送り届けられたというし。


 迷惑かけるにもほどがある。というか、途中で目が覚めない私ってどうなの。恥ずかしすぎるわ……


 次に会ったとき、どんな顔をすればいいのか。これ以上、幻滅されるようなことは避けたい。


 それにしても、私って何度もクリストフにお姫様抱っこされているような……


 これまでの場面が思い出され、妙に心臓が騒ぎ出す。


「レティシア様、お顔が赤いようですが……まさか、疲れで熱があ──」

「ないない! さっきパン生地をねたから、熱くなっただけよ!」


 私は慌てて、ルーシーの言葉尻を遮る。


「そうですか? ですが……慣れるまでは、営業時間を短くするというのはどうでしょう?」


 から元気に見えたのか、ルーシーがそんな提案をしてくれる。


「そうね……倒れでもしたらパン作りができなくなるものね」


 以前よりはマシになったけど、まだまだこの身体は貧弱で。実は今も、筋肉痛でヒーヒー言いながら、やっとの思いで開店準備をしている。


「夕方の五時までが理想だったけど、一週間くらいは三時までにするわ。ルーシー、お知らせの張り紙を作ってくれる?」


 片付けや次の日の準備を終えて、五時までに家に帰れたらいい。


「はい、ドアに張り出せばいいですか?」

「それでいいわ。じゃあ、私はパンを焼く作業に入るわね」


 開店の二時間前。昨日と同様、丸パンにピザパン、あんパンと揚げあんパン。それからマードリンパウンドケーキにメロンパン、ソーセージパンだ。それから今日は、新たにチョコレートを練り込み、マーブルパンを作るつもりだ。


「ルーシー、このパン生地に、トマトソースを塗ってくれる」


 発酵させておいた生地を平らに伸ばし、天板の上に乗せてルーシーに渡す。トッピングは、コーンとハムとチーズだ。


「はい、お任せください。あんパンのあんこも包みましょうか?」

「ええ、お願いするわ」


 ルーシーは器用で、私が手本をやってみせると、数回でコツを掴んだ。機会を見て、パン生地の捏ねかたも伝授したいものだ。


「レティシア様、もう店の前に行列ができていますよ!」


 焼き上がったパンを棚に並べて厨房に戻って来たルーシーが、興奮ぎみに教えてくれた。


「まだ開店まで、三十分以上もあるのに。今日もどんどん焼くことになりそうね」


 その予感は当たり、客足は途絶えることなく続いた。特に昼時は多く、開店後に助っ人に来てくれたパメラは、カフェを回すのに天手古舞てんてこまいだった。


「レティシア様、素敵なパン屋ですね」

「よう、頑張ってるか」


 パメラが帰ったあと、午後二時を過ぎたころだったか、ライナスがディアナと共にやって来た。


「いらっしゃい、ディアナ。来てくれて嬉しいわ。まだあなたは、私のパンを食べたことなかったわよね。好きなだけ選んで。ご馳走するから」


「え、そんな──」


「いいの! ドルフさんの足を治してくれたお礼だから。そのお陰で、こんなに素敵なパン屋を建ててもらえたんだもの」


 それに、これまで意地悪したお詫びだと言うと、ディアナはにこりと笑顔を見せてくれる。


「ライナスもおまけでご馳走するわ。二人で仲良く、しながら食べるといいわ」

 

 私のデートという言葉に、ディアナの頬がほんのり赤くなる。


「おまけってなんだよ。まあいいけどな。じゃあ、俺はこのチョコのパンにする。ディアナは?」


 目ざとく新作パンを選ぶとは。今のところ、ライナスは全種類制覇中だ。


「私は……どうしよう、迷ってしまいます」

「遠慮しなくていいのよ。食べきれなかったら、持って帰ればいいんだし」


 私はルーシーに全種類渡すよう言付ける。


「お待たせいたしました。焼きたてで温かいパンは袋を分けてあります」


「ありがとうございます。では、また来させていただきます」


 踵を返し歩き出すディアナに、ライナスが続く。


 肩に手なんて回しちゃって。ふふ、仲のいいことで何より。


 もうすっかり恋人同士だ。

 微笑ましく思いながら見送っていると、入れ替わりに青年がやって来る。彼はドルフさんの新しい弟子で、フレッド。ブラウンの髪は短髪で、頑張り屋の爽やか青年だ。


「いらっしゃい、フレッド。何にする?」

「やあ、ルーシー。丸パンを一つと、ピザパンを一つ」


 この二人、いい雰囲気なのよね。


 ルーシーを一心に見つめるフレッドの目は、恋する男の目だ。ルーシーも彼の好意に気づいているようで、フレッドが来ると世話を焼きにカウンターから出てくる。


 いいな~、私もそろそろ恋がしたいかも。って、今は婚約者がいるんだったわ!


 かりそめの婚約者だけれど──


 あれ……まただ。胸がズキンって。


 この感情はなんなのか。どうして、という言葉に心が反応をするのか。


 これって、私がクリストフのことを好きだったりするのかな……


 素っ気ない言葉とは裏腹に、本当は私を心配してくれているクリストフ。なにげに力になろうとしてくれているクリストフ。私を必死に探してくれたクリストフ──


 嫌われていると思っていたのに、このごろは親しいくらいで。


 私が悪役令嬢ではなくなったから? だからやさしくしてくれているの?


 それが理由なら、勘違いしてはいけない。


 危なかった〜、親切なだけなのに、自分が特別扱いされているとイタイ女になるところだったわ。


 あれ……また胸が痛むんですけど──


 もう手遅れだった? 私、すでに恋しちゃってる?


 でも同時に、本当に自分の感情なのかわからなくなってくる。

 胸の奥深いところが、じりじりと焼け付くのだ。それは恋焦がれる気持ちのようであり、嫉妬のような感情で。


 これって……過去のレティシアの気持ちだったりするのかな。

 ねえ、あなたって、クリストフのことが好きだったの? 


 胸に手を当て問いかけてみる。けれど返事なんてあるわけなくて。


 う〜ん、私の思い過ごしかな。レティシアの記憶に、恋をしてるものはないし。


 あるのは、クリストフが怖い。関わらないようにしなければ。そんな感情の記憶だけだ。


「レティシア様、私は食器類の片付けをしてきます」

「ええ、お願い。私は棚のほうを片付けるわね」


 フレッドが帰ったあとも、十人近いお客さんが来てくれ、棚にパンはほとんど残っていなかった。


「丸パンが三つと、あんパンが二つ、それから……メロンパンも二つね。残ったのがこれくらいなら、数の変更はしなくてよさそうだわ」


 あんパンか……そういえば、クリストフはまだ食べてないわよね。


 私が寝落ちしてしまったから、食べ損ねたはずだ。あのとき食べていたら、クリストフはどんな感想を言ってくれただろう。


「そろそろ終いか? 三時までとなっているが」


 空になった棚を布巾で拭きながらもの思いに耽っていると、その張本人が現れる。


「っ! ク、クリストフ殿下。その……き、昨日はお世話になりました」


 思わず鼓動が大きく跳ね、しどろもどろになってしまう。


「ああ、まったくだ。ハーブティーを飲みながら寝てしまうとは、幼子おさなごかと思ったぞ」


 ええ、ええ、自分でもそう思いますとも。


「それで……調子はどうだ。苦しかったりしていないか?」


「多少の筋肉痛はありますけど……苦しいなんてことはありませんよ?」


 以前も聞かれた気がする。苦しくないかと。どうしてそんなことを聞くのだろう。


「だったらいい。顔色もいいようだし、安心した。無理はしないように、レティシアは私の婚約者なのだから倒れられては困る」


 クリストフが私の頬に手を当て、顔を覗き込んでくる。


「だだだ、大丈夫ですよ。至って健康ですから!」


 どうしちゃったの、クリストフ。スキンシップが過剰になってない⁉ 


 包まれた頬が熱くなり、心拍数が一気に上がってしまった。それに今日も来てくれたのは、私を心配してのことだと思うと身体中までも上気してくる。


「うん? これはあんパンではないのか?」

「は、はい、そうですけど……」


 余ったパンを端に除けていたのだけど、クリストフがその中からあんパンを指差す。


「もしかして、食べたいんですか? でもこれは、残り物で……」

「構わない、レティシアの作ったものはすべて食べてみたい」 


 クリストフは口元を綻ばせ、期待の籠もった目を向けてくる。


「わ、わかりました」


 そんな笑顔で言われたら、困ってしまう。


 本当に……クリストフは罪な人ね。


 勘違いさせないでほしい。

 私のこと、好きなんじゃないかって── 

 

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