第72話 パン職人を増やさないと

 『フロッシュ・スリール』がオープンしてから、毎日のようにクリストフが様子を見にやって来る。


 私が初日に、疲労のあまり寝落ちしことで、いらぬ心配をさせてしまったようだ。


 先日など、新作パンの試作に夢中になり、すっかり辺りが暗くなってしまったのだが、その間クリストフは急かすこともなく見守ってくれていて。


 どうしてそこまで心配するのかしら。


 これでも私は十七歳だ。身体のほうもリズムができてきて、オープン当初のように疲労度は重くない。それに昨日から、助っ人なしでも営業できている。


 そして、オープンして十日が経った今日、新作パン第二号を店頭に並べた。


「おお、今日は新しいパンが出ているね。美味しそうだ」


 初日から毎日のように来てくれているのは、ルグラン・グルエフという青年で、子爵家の次男だそうだ。彼はスポーツマンタイプというか、サバサバしていて威勢がいい。容姿も短髪で、襟足も刈り上げていてスッキリしている。


「レティシア嬢、商品名からベーコンとチーズが中に入っているのはわかるんだが、マヨというのはなんだい?」


 探究心もあるようで、目をキラキラさせて新しいものに興味津々といった感じだ。


「卵から作った、マヨネーズという調味料のことです」


 ピザパンが好評だったことから、チーズを使ったパンを作ってみた。今のところ、石窯で上手く焼けるパンは限られているから、基本の丸パンの中に入れる具材を、メフィラーナ国の人たちの嗜好に合わせて変えていこうと思っている。


 今回のマヨネーズは、養鶏場で働いてもらっている婦人方にお願いして作ってもらった。

 作り方はいたってシンプル。黄身とお酢と塩、それから植物油を混ぜたものだ。その手作りマヨネーズでベーコンとチーズを和えたものを、パン生地で包んで焼いたのが、ベーコンチーズマヨパン。


「ほー、卵から作った調味料か。どんな味なんだろう、楽しみだ。まず一つ、いつもので」


「はい、かしこまりました。お好きな席に着いてお待ちください」


 会話を聞いてきたルーシーが、ハーブティーの用意を始める。彼のお気に入りは、ローズマリーだ。


「お待たせいたしました。どうぞごゆっくり。是非、感想を聞かせてくださいね」


 ルグランはまだ食べたことのないパンは、必ずカフェスペースで一つ食べてみるのだ。そして好みに合えば、五個は買って帰ってくれる。


「いいとも。レティシア嬢のパンにハズレはないが、いつも驚かされてるよ」


 パンを半分に割ったとき、黒い物体が出て来たのは衝撃だったと笑っている。


 そうだったわ。あんパンを恐る恐る口にしていたのよね。


 あのときの顔を思い出すと、愉快になる。あんこの匂いを嗅いだり、ツンと指で触ったり。目を閉じてあんパンを口に入れたときなんて、まるで清水の舞台から飛び降りる覚悟をした人みたいだった。


「では、いただくとしよう」

 にこにこしながら、ルグランはパンにかぶりつく。


「う──美味い! パンに染み込んでいる酸味……なのかな? これが、マヨネーズというものなのか。レティシア嬢、五個……いや、今残っている全部を買わせてくれ」


「はい! では準備しておきますね」


 前世ではよくあるパン。でも、ここではもてはやしてもらえる。


 天狗にならないように、気をつけないとね。


「ルーシー、ベーコンチーズマヨパン、ルグラン様が全部お買い上げよ」


 パンが並んでいる棚を見ながら、ルーシーに告げる。そしてふと、窓へ目を向けると──


 あれ……また来てるわ。


 店を覗いていたのは、以前イアンに案内してもらった王都のパン屋の主人だ。名前はグレゴリー。ルーシーが教えてくれた。


 種類でも数えているのかしら。あぁ……敵情視察ね。ちょっと大胆な気もするけど。


 パンを指差しながら、ぶつぶつ言っている。


『フロッシュ・スリール』は、外からも店内の様子が見えるように、パンが並べてある棚の部分を硝子張りにしている。


「レティシア嬢、ご馳走様。会計を頼むよ……って、今日は堂々と見ているね、あのパン屋の主人」


 ルグランによると、オープン当初に見かけたときは、木の陰からこっそりと様子を見ていたという。それが日を追うごとに距離が近くなり、今日に至っては窓に張りつかんばかりになっている。


「彼の店、客足がピタリとなくなったらしいから、この店が気に入らないのかもしれないな。腹いせに、何かしてこないといいんだけどね。まあ、公爵令嬢に喧嘩を売るような真似はしないだろうが」


 それでも気をつけてと、ルグランは帰っていった。


 やっぱり閑古鳥かんこどりが鳴いてるのね、あのパン屋。


 それも当然だろう。私のパン屋のほうが、安くて美味しいのだから。それでも彼がお客さんを大事にしていたなら、結果は違っていたかもしれない。


「あ……行っちゃったわ」


 私と目が合うと、気まずそうに建物から離れていった。


「どうして何度も来るのでしょう、グレゴリーさん」


「うーん、偵察っていうよりも、興味があるって感じなのよね。きっと、ここのパンを食べてみたいんじゃないかしら」


 最初こそ、客入りを見に来ていたのだと思う。けれどお客さんたちの「美味しい」という言葉に、食べてみたいという衝動が抑えられなくなってきたのではないだろうか。でも、私のような小娘が作ったパンを買うなど、プライドが許さないのかもしれない。


 同じパン職人として、気持ちはわかる。才能への嫉妬、前世の私もそうだった。でも、美味しいと言われるものは、食べて研究するべきだ。自分との違いを知ることで、次へのステップアップに繋がるはずだから。


「もしかしたら、奥さんに食べさせてあげたいのかもしれませんね」

「え! 奥さんがいるの⁉」


 あの無精ひげを生やした、ぱっとしない横柄な男に……偏見だったかしら。


「はい、父から聞いたのですが、この一年、奥さんは体調を崩していて店の手伝いができていないとか」


 奥さんは愛想がよく、店主の無愛想さをカバーしていたそうだ。


「ああ見えて、グレゴリーさんはまだ三十代後半だったと思います。それに愛妻家だそうですよ」


 へー、てっきり四十代半ばかと思っていたわ。しかも愛妻家、人は見かけによらないのね。あ、あのときやる気がなさそうだったのは、奥さんがいないからだったの?


 彼の店に入ったときの、接客態度を思い出す。


「お子さんは? もう大きくなって、家を出ているとか?」


「それが……昔、火事を出したらしくて、そのとき顔に火傷を負ったそうなんです。それ以来、あまり表に出なくなったようで」


 聞けば十代のお嬢さんだという。


「そうだったの。お気の毒ね」


 家族の問題を抱えながらも、彼なりに大変だったようだ。


 あ、だからあのとき、小麦粉の値が上がって不機嫌だったんだわ。


 生活費に薬代と、稼がなければならない。そんな中、私のパン屋がオープンして、パンの売れ行きが悪くなったら……


 敵情視察もしたくなるわよね。


 とはいえ、いくらグレゴリーが頑張ったとしても、私以上のパンは作れないだろう。自慢とかではなくて、酵母菌ちゃんのことを知らないからだ。


 話しをする機会があれば、教えてあげようかな。


 私はパンの素晴らしさを広めたいだけ。そのためには、多くのパン職人の誕生は望ましい。互いに切磋琢磨する中で、美味しいパンが生まれていくと思うから。


 そうよ、パン職人を増やさないと!


 酵母菌ちゃんの存在を、惜しみなく教えていこう。私は市場を独占したいわけではないのだ。


「はぁ……今度はカラスだわ──」


 ふと窓の外へ視線を向けると、木の枝にカラスが一羽止まっていた。昨日もその前の日も、オープンしてから度々同じ場所に止まっている。同じカラスだろうか。じっと私を見ているようで、気味が悪かった。


 そういえばあの姉妹、どうしてるのかしら。


 黒といえば、メーベルとビアンカが頭に浮かぶ。


 姉妹の前で、「ディアナに最大級の蔑みを」、そう啖呵を切っちゃったのよね、私。


 とはいえ、そんな気はさらさらない。放置しているうちに、ラデス国王が来たりと忙しかったし、夏休みにも入ったりで、メーベルたちとは顔を合わせずに済んでいた。


「どうかされましたか、レティシア様」

「ううん、なんでもないわ。ベーコンチーズマヨパンの追加を焼いてくるわね」


 王都で好評になりつつある『フロッシュ・スリール』。あの姉妹が私のパン屋だと知るのも時間の問題だろう。そして、私が悪役令嬢ではなくなったと気づくのも、時間の問題かもしれない。

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