第34話 よく頑張ったな

 ピンチだわ、非常にピンチなのよ。


 私は幌馬車ほろばしゃでの旅を甘くみていた。まさかこんなにも過酷だったとは──


 休憩を挟みながら馬車に揺られて、まだ半日も経っていないというのに、振動で尾てい骨の辺りから痛みが走るのだ。


 途中まではよかった。揺れを楽しむ余裕もあって。昼食も草原で、私の作ったパンを食べながらピクニック気分だったし。


 それが夕刻に差しかかった今では……


 ぎゃー! もうやめて、お尻が限界なのよ。


 平静を装っているけど、内心では悲鳴を上げている私である。


 王都の舗装された石畳とは違い、地面が剥き出しになった凹凸おうとつのある道を走っている今は、もう悲惨の一言に尽きる。


 馬車の車輪が石に乗り上げた時などは最悪で、私のお尻に多大なダメージを与えた。それに加え──


 うー、早く身体を伸ばしたい。


 同じ体勢で足腰は痛いし、背骨はぎしぎしと音を立てているような気さえする。


 はぁー、この軟弱さ。悲しいやら、情けないやら……


 エセルは平気そうなのよね~。


 ちらりと視線を向けると、涼しい顔で本を読んでいる。


 あぁ……もっと筋トレをしておくべきだったわ。


 皆の足を引っ張ることになったらと思うと、ただただ申し訳ない。


「大丈夫ですか、レティシア様。もうすぐ宿のある町に着きますから──」


 私の視線を感じたのか、ふとエセルが顔を上げた。


「平気よ! なんて言っても、エセルは誤魔化せないわよね。実はちょっとお尻が痛くて」


 旅には慣れているエセルだ。私の様子がおかしいことには気づいているだろうから、正直に白状する。


「誰でもはじめはそうですよ。私も父に連れられて遠出したときは、お尻が赤くなりましたから」

「そういうものなの? だったら私も、その内に慣れてくるかしら」

「そうですね……帰りの便でなら、少しは──」


 言葉を濁らせるエセルの様子から、行きの間中、私は苦痛に耐え続けると確定してしまった。


  ∞∞∞


 陽が沈む前に、本日の宿があるラーナイル領の中心街に到着した。ここはメフィラーナ国の三つある領土のうちの一つで、南に位置している。


「着いたぞ、レティシア……って、大丈夫か? 随分とげっそりして見えるが」


 馬車を止め、御者台からキャビンを覗き込んできたお兄様が、私の顔を見るなりそう言った。


 なんのこれしき……と言いたいところだけど、私は自分の足で馬車から降りられるか自信がなかった。何せ立ち上がることもできそうにないからだ。馬車は止まっているというのに、身体はまだ揺れているような錯覚に陥っている。


「レティシア様、私は先に降りて荷物をお部屋に運んでおきますね」

「ありがとう、エセル。私もすぐに降りるから」


 とは言ったものの、折り曲げていた足をゆっくりと伸ばすと、膝がミシミシと痛んだ。まるで油の切れたゼンマイみたいだ。


 エセルはというと、軽やかに立ち上がり、荷物をいくつかお兄様に手渡したあと、ひょいとキャビン後方から飛び降りた。


「凄いわね、エセル。商会の娘は皆、あんなことができるのかしら」


 などと感心している場合ではない。私も早く降りなければ。

 とりあえず四つん這いで、後方についているタラップまで移動してみようかと考える。


 とそのとき──


「失礼するぞ」


 クリストフが御者台から、キャビンに乗り込んできた。


「え、え、何? ちょっと──」


 近づいて来たかと思うと、私を軽々と抱き上げる。あまりの早業に、私はされるがまま。石化して身を縮こまらせていると、何を思ったのかクリストフが、「心配しなくても、落としはしない」などとため息交じりに呟く。


 怖がっていると思ったのよね。でもね、そうじゃなくて、これってお姫様抱っこでしょ!

 一度は夢見るシーンではある。だけど、こんな形で叶うとか悲しすぎる。


 そんな私の胸の内など知らないクリストフは、馬車を降りるとすたすたと軽い足取りで宿の入口に向かう。


 こんなにたくましいなんて……私、太ってはいないけど、結構身長あるんだけどな。


 百八十センチに近いクリストフと並んだときの感覚からすると、多分、百六十五センチくらいだと思う。


「あの、殿下。もう下ろし──」

「レティシア、旅の間は『殿』は禁句だ」


 私の言葉を遮り、端的に指摘される。


 あ、これはお忍びの旅だった。身分が知られるような会話には気をつけないと。


「わかりました。それでその、下ろしてもらえませんか。重いでしょう?」


 宿に入ったところで申し出る。さすがに視線を集めていて恥ずかしい。


「無理だろう。コケるのがおちだ、大人しく運ばれていろ。それに……重くなどない、軽すぎるくらいだ。──主人、先ほど来た者の連れなのだが」


 私の申し出はあっさり却下され、クリストフは宿のカウンターにいる主人に声をかけた。


「はい、承っておりますよ。そこの階段で二階へ上がってください。部屋の前で待っているとのことでしたよ」


 宿の主人から伝言を聞き、二階に上がっていく。それがなかなかの、急な階段で。


 意地を張らなくてよかった。もしあのとき、無理に下ろしてもらいこの階段を自分の足で上がっていたら、コケるどころでは済まなかったかもしれない。 


 クリストフには、感謝しないといけないわね。でも、もう少し優しい言い回しをしてもらえるとありがたいんだけどな。


「レティシア、辛くなったらちゃんと口にするように。体調を崩されたら、予定が狂う。だが……令嬢の割に、よく頑張ったな」

「っ──! つ、次からはそうします」


 小言を言われたかと思ったが、いたわるような言葉が続き、鼓動がドクンと跳ねた。私を見下ろす視線は優しげで、顔まで火照ってきたように思え咄嗟に俯く。


「しかし、ことほかレティシアは、平民の格好が似合うのだな」

「な、そういうあなたこそ、その旅人のような格好、似合ってますわよ」


 揶揄われた、そう思い負けじと言い返す。けれどクリストフの表情には、揶揄いの色はなくて。


 あ……もしかして、私がシュンとしていると思って、和ませようとしてくれたのかも。


「おお、来たな。レティシアはエセルと同室で、こっちだ」


 二階に上がると、部屋の前にいたお兄様が手を上げる。そしてドアをノックすると、「レティシア様、どうぞ」とエセルが顔を出す。


 クリストフは当然のように部屋に入り、私をベッドの上に下ろしてくれた。


「あの、クリストフ様、ありがとうございました」

 

 感謝を込めて、お礼の気持ちを伝える。もちろん、微笑んで。


 なんだか、ものすごく照れるわ。

 それはクリストフも同じのようで、一瞬目が泳ぐ。


「──明日、ここにもう一泊する」

「え……?」


 それだけ言うと、クリストフは逃げるようにさっさと出て行ってしまった。


 もしかして、私のために?


 言葉の足りないクリストフ。でもそれは、私の心に負担をかけないため。そんな気がした。


「私の身体のことを思って、出発を遅らせてくれたのよね。ありがたいけど、よかったのかしら。私のせいで、旅の日程が狂ってしまったでしょう?」

「気にされる必要はありません。計画どおりですから」

「え、計画どおりって……」


 聞けば私が長旅に耐えられないであろうことは、クリストフとお兄様の間では想定内だったという。だから最初から余裕を持った日程になっているのだと、エセルが教えてくれた。


「そうだったの。随分と、心配りをしてくれていたのね」

「はい、とてもお優しい方ですね」

「ええ、本当に。エセルもありがとう」


 クリストフ……私のことを嫌悪していると思っていたけど、違うの? さっきは馬車から降りられない私を、気遣ってくれたし──


 なんて、あれは紳士としての行動よね。私はまだ、クリストフに対して何も善行をしていないんだから、好意的なはずないか。


 けれど、私はクリストフに対して考えを改めなければ。


 クリストフは怖くて苦手。これは私の勝手な思い込みだったのだから。そのせいで、本来の彼を見ようとしていなかった。

 とはいえ、以前の性悪な私の中には、『優しさ』を感じ取る心が欠如していたから、クリストフの心根を汲み取ることはできなかっただろうけれど。


 でも、今は違う──


「レティシア様、明日は身体が辛くなければ、ラーナイル領の中心街を観光されてはいかがですか? ここは果物の名産地なのですよ」


 この季節はメロンやスイカ、桃などもあるという。


「そうね、せっかくだからそうしようかしら」


 何はともあれ、私はベッドに大の字になり、凝り固まった身体を伸ばした。

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