第32話 エセル・クレイマー
ようやく東の空が白み始めたころ、二頭引きの
「おはようございます、ジェイク様」
建屋の前で到着を待っていたエセル・クレイマーは、幌馬車に歩み寄り青年を見上げはにかむ。
「おはよう、エセル。
「いいえ、私もラーミス国には、一度行かねばならないと思っていましたから」
エセルはキャビンに手荷物を乗せながら答える。
(まさか、ジェイク様と共に行くことになるとは思わなかったけれど)
というのも、この話しを持ちかけてきたのはレティシアだった。それも三日前、唐突に。
急なことではあったが、その目的にエセルは共感を覚え要望を受けた。このまま小麦粉の値が釣り上がっていくのを、黙って受け入れ続けるのはエセルとしても業腹だったからだ。
何かしらの、交渉の糸口はないものか──
エセルにとって、今回のラーミス国行きは、商売人としての腕の見せ所でもあった。
とはいえ、同行人は商会の仲間ではなくレティシアだ。旅の間、彼女とずっと一緒だと思うと、不安がないといえば嘘になる。何せ自分にとってレティシアとの間には、はっきりいって苦い記憶しかない。ジェイクと別れる選択をしなければならなかったときは、胸が張り裂けそうだったのだから。
数年前、お互い愛し合っていたのに、エセルは身を引くことを決断した。
何がそうさせたのか――
レティシアを大事にしているジェイク。どんなに我が儘で性悪でも、ジェイクはレティシアのことを決して悪く言わなかった。
だからエセルも、レティシアから受けた仕打ちをジェイクには言わず、まだ子どもなのだと自分に言い聞かせた。きっと兄を取られたという思いからの愚行だろうと。
しかし次第に、耐えられなくなっていった。自分はレティシアよりも下、勝てない。どこかに消えてくれたらいいのに。
自身の心に生まれたドス黒い感情に、エセルは怖くなった。このままでは、最低な人間になってしまうと。
そう、ジェイクに別れを告げたのは、自分の保身のためでもあったのだ。
今となっては、醜い心を持つ自分に気づかれ、ジェイクに嫌われるのが怖かったのかもしれないと思っている。
「エセル、皆が来るまで、ここに──」
ジェイクが手を差し出してくる。
エセルは小さく頷きジェイクの手を取ると、ステップに足をかける。
「せーのっ!」
ジェイクはかけ声に合わせ、エセルの手をグッと引く。
「あっ──」
勢い余って、エセルはジェイクの胸に倒れ込む。すると──
「エセル、旅から戻ったら、また以前のように家へ来てもらえないだろうか」
腕に包み込まれ乞われる。
「いいのでしょうか、私などが──」
嬉しいけれど、自分は一度ジェイクから逃げた身。
「いいに決まっている。それにもう、両親に言ってしまったんだ。エセルと結婚したいと」
「ジェイク様──」
いくら年月が経っても、ジェイクへの想いが薄れることはなかった。だからこそ、苦しかった。
忘れたい……嫌いになれば、楽になれる?
これまで何度、そう思ったことか。
(よかった──苦しくても、自分の心を偽らずにいて)
今は幸せで胸がいっぱいだ。
「エセルがレティシアのことで、辛い思いをしていたことは感じていた。だというのに、守り切ることができず、すまなかった」
ジェイクは続けて告白する。エセルのことを想わない日などなかったと。
「私も……私もジェイク様のことを、ずっと想い続けていました」
「エセル──ありがとう。俺のことを嫌いにならないでいてくれて」
エセルの身体から力が抜ける。そして身を預けるように、ジェイクの胸に頬を寄せた。
「なんだか変な気分です。私たちの関係が壊れた切っかけがレティシア様で、再び結びつけたのもレティシア様だなんて」
「確かにな。許してくれとは言えないが、レティシアは変わろうとしている。どうかその姿を、見てやってくれないか?」
エセルもレティシアの変化は感じていた。何せ変装までして商会に来たのだから。
「はい、私の
「そうだな、エセル──」
ジェイクが顔を寄せながら、エセルの唇を親指でなぞったときだった。
「お待たせー! お兄様、エセル」
元気な声が後方から響いてくる。
「お、おお! 待っていたぞ、レティシア」
「お、おはようございます、レティシア様」
二人は慌てて身体を離す。
「あら、お邪魔だったかしら」
真っ赤な顔のエセルに何かを察したのか、レティシアは揶揄い混じりに口元を手で隠す。
「いいえ、そんなことは──お荷物はこちらへ」
エセルは御者台から降り、キャビンの幕を捲る。
「あの、レティシア様。本当にこれに乗られるのですか」
今回は商人を装うため、貴族らしからぬ馬車である。荷台は板張りで椅子はなく、乗り心地はよくない。
「ええそうよ。クッションも持って来たし、問題ないわ」
レティシアはそう言うが、エセルは気が気ではない。はっきり言って、
「レティシア様、本当に私はお供しなくてよろしいのですか。私は心配です」
彼女の気持ちは、エセルにもよくわかる。
「大丈夫よ。お兄様だっているし、エセルもいるんだから。それにルーシーには、パン屋のほうをお願いしているでしょう」
あのレティシアがパンを。
はじめて彼女のパンを食べたときの衝撃は、昨日のことのように思い出せる。ジェイクが届けてくれたのだが、何度も「レティシア様がこれを? それに本当に、これはパンなのですか?」と聞いてしまった。
(人は変われるものなのね。まるで夢でも見ているようだわ)
レティシアの過去の辛辣さを知っているだけに、狐につままれたような気分だ。
「さあ、出発よ!」
二人でキャビンに乗り込むと、レティシアが意気揚々と声を上げる。
過去は過去──
エセルは今のレティシアが好きだと思えることに、朗らかに微笑むのだった。
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