第28話 クリストフ・ルフェーブル

 夜会が始まるほんの少し前。


 城の自室でクリストフ・ルフェーブルは、差し出されたパンを見つめていた。


「これを、レティシアが?」

「ああ、信じられないだろうが、本当にレティシアが作ったものだ」


 レティシアの兄であるジェイク・カーライルは、感無量のようで目を潤ませている。加えて、想い人であったエセル・クレイマーとのよりも戻ったとのことで、友人として、いや、幼馴染みとしてクリストフも安堵していた。ジェイクが破局を迎えた際、何日も酒に酔い潰れていた姿を知っているからだ。


(あのときは、かける言葉が見つからなかった。理由が理由なだけに)


「さあ、食べてみてくれ。なかなかの美味びみだぞ」

「それは楽しみだ、いただこう」


 胸を張るジェイクから受け取った瞬間、クリストフは目を見開く。


(表面が……やわらかい──)


 見た目は普段食べているものと大差ないというのに。強いて言えば、焼き色がほんのりきつね色であるくらいの違いだ。


「これは、本当にパンなのか……」


 半分に割り口に入れると、そのやわらかさに驚く。加えてほどよい塩味えんみと、噛むほどに甘みが広がり、あまりの美味しさに驚嘆する。


(うん? これは……)


 クリストフは鼻に抜ける、微かなフルーティーな香りを感じた。


「ジェイク、レティシアは奇妙な瓶を持っていなかったか」

「おお! 知っているのか、を。俺は目を疑ったぞ。生ゴミを入れているのかとな」


 気心の知れた仲だ。ジェイクは屈託なく本音を漏らす。新しい嫌がらせを始めるのかと、ひやひやしたとも。


は、酵母菌ちゃん、というのだそうだ」

「はあ? 酵母菌ちゃん……聞いたことがないぞ」

「ああ、私もだ。だが、このパンのできの良さを思えば、どの魔法よりも効力があるのは間違いないな」


 どうしてレティシアが、酵母菌ちゃんなるものの存在を知っているのかは疑問だが。


「なあ、クリストフ。今のレティシアを、どう思う?」


 ジェイクが躊躇いがちに聞いてくる。


「そうだな……最近のレティシアは、身に纏う空気に危うさがなくなったように思う。いい傾向だ。彼女の中で、何か変化が起こっているのかもしれない」


 クリストフには、以前のレティシアが自ら奈落ならくの底に向かっているように思えてならなかった。

 そしてそれを止めることのできない自分が歯がゆく、情けなくもあった。


「そうか──俺たち家族に、やっと春が訪れる。そう期待してもいいのだろうか」


 両親を思い浮かべているのか、ジェイクは遠い目をする。


 時に辛辣で、平気で冷酷なことを繰り返す妹に、ジェイクは兄として矢面に立ち、非難を受け止めてきた。


「長かった冬が明ける……か」


 クリストフ自身も、雪解けを迎える日を夢見、願っていた。


(レティシア──戻って来い。あの頃のお前を、私は──)


 干渉に浸りそうになり、クリストフは小さく息を吐く。


「ところで、レティシアは何をしようとしているのだ?」

「それが、パン屋を開くと言ってな。始めは冗談かと思ったが、このパンを目の前で作られたら、信じないわけにはいかないだろう」


 どこで作ったのかと問えば、メイドの家だという。


(なるほど、あの日のものも、やはりレティシアが)


 クリストフの口元が、ふっと綻ぶ。


「珍しいな……何を笑っている? いいことでもあったのか」

「まあな。ジェイクより、私の方が先だったと思うとなんだかな」


 曖昧あいまいに答えると、「何が先だって? 言え」としつこく聞かれる。


「レティシアの作ったクッキーも、美味うまかったのさ」


 あの日、護衛兵が持ち帰ってきたクッキー。


 クリストフが匂いに反応すると、焼きすぎたからとお裾分けしてくれたものだと説明を受けた。聞けば、足の悪い男と連れだって帰った女性と子どもが作ったというではないか。


 にわかには信じがたいが、もしも本当だとすれば。


 クリストフは我慢ならなくなり、護衛兵からクッキーを取り上げた。とはいえ、さすがに全部取り上げるわけにもいかず、半分に留めたが。


(レティシアは気づかれていないと思っていたようだが)


 変装はしていても、あの苺色の目を自分が見誤るずがない。


「なんだって、兄の俺ですらレティシアの手作りクッキーなど食べたことがないというのに」

「いいではないか。お前は私より先に、パンを食べたのだから」

「よくない、よくないぞ! 兄の特権を奪うな」


 ジェイクは昔から変わらない。どれだけ妹であるレティシアが、性悪で名高くなろうとも。


「お前は凄いやつだよ」

「よく言うよ、自分だってそうだろう。──申し訳ない、見守り役をさせて」


 ジェイクが深々と頭を下げてくる。


 これまでのレティシアの悪行が、国外追放にまで至らなかったのは、自分の存在が抑止力になるならと、クリストフが適度な邪魔をしていたからで。


「よしてくれ。この件に関しては、私たちは一蓮托生いちれんたくしょうだろう?」

 

 クリストフとジェイクは、顔を見合わせ頷き合う。そして戦友の如く、「これからも変わらずに」と、硬い握手を交わすのだった。

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