第6話
家庭教師の仕事はオニごっこから始まる。
オレはコレットとドレシアを捕まえて席に座らせてから、ようやく数学の話ができるのだった。
「じゃあ、質問がある人」
「先生、いい人いないの?」
ドレシアだった。授業中も関係ない質問が飛んで来るのでオレは気が気でない。
「今は数式に集中しようか」
「きーきーたーいーきーきーたーいー」
「うっ、今すぐ恋バナを聴かないと死んでしまう……」
「コレット!」
悪ノリに乗って倒れたコレットを抱え、ドレシアが叫ぶ。
「しっかりしろ! 傷は浅いぞ!」
「この病は恋バナでしか癒せない……!」
「恋バナなんて無いよ」
オレが言うとコレットが起き上がり机に脚を投げ出す。ドレシアも同じポーズで腕を組む。
「しけてやがる」
「全てのやる気が失せた」
オレは部屋の隅に視線を移した。
部屋の隅にはオデがいる。国語の時間を受け持っているオデはおろおろしている。
「お、お、オデも持ってないど」
「いいから。付き合わなくて。この数式の面白いところはね……」
授業を再開する。
ふと、あの人は『いい人』と言っていいのだろうかとオレは思案する。
名前はアンナと言ったか。突然家を訪ねて来たシスターは、居場所がないと言っていた。
「甘酸っぱレーダーが反応!」
「おのれ隠していたな!」
暴れる姉妹をなだめてオデにパスした。
オデは困っていた。
帰宅するとアンナが門の前にいた。
オレは彼女を迎え入れ、紅茶とささやかな焼き菓子を出した。
「……全てが最悪だったその時、わたしはルノボグ様に救われたのです。ああ、これは運命なのだと、神は存在したのだとその身で感じました……」
彼女はかれこれ一時間、自身の神秘体験について語っている。
オデは「掃除をしてきますど」と行ってしまった。オレは相槌を打ちながらアンナの話を聴いている。足元でモフがあくびをしている。
「ルノボグ様はこの世の真理なのです」
「なるほど」
「神に触れることは真理に触れることなのです」
「ほう」
アンナは天に向けていた熔けるような視線をこちらへ向けて、それから言った。
「わたしの話はつまらなかったですか」
「いえ、そんなことは」
アンナは肩を落とした。
「ああ、やっぱり駄目だ。わたしの言葉ではルノボグ様の素晴らしさを少しも表現しきれない……」
オレは彼女の様子を見て、すっかり冷めた紅茶を見て、それから足元のモフを見た。困惑した心の通り視線を漂わせてから、オレは言葉を発した。
「十分伝わりましたよ」
「伝わっていません! 伝わったのなら、なんかこう、地面が割れたり、光ったり、すごいことになるはずなので!」
「はあ」
アンナは両手を振り回して光を表現している。比喩的表現なのか超常現象なのかは不明だが、彼女の真剣さだけはオレに伝わった。
「できれば、ルノボグ様よりもアンナさん自身の話を聴きたいなと思っていて」
その言葉が悪かった。
アンナが暗い表情でこちらを見た。
「改宗の気持ちはないのですか?」
オレは何も答えられなかった。
「すみません、勘違いしていたようです。しばらく考えさせてください」
アンナは肩を落として、うつむいたまま門を出ていった。
門の前を掃除していたオデが彼女を見送って、オレに歩み寄ってくる。
「ご主人様、ご友人と喧嘩したど?」
ご友人か。
オレはハッと気付いた。
「勘違いしてしまったみたいだ」
冷めてしまった紅茶を片付けて、手を付けなかった焼き菓子を缶に戻した。一人の友人を失ったとオレは思った。
部屋に入ろうとするとアンナが早足で戻って来た。
「あの、わたし、本当に無礼な態度を、すみません!」
言葉も早い。
「改宗されないとしても、あなたはわたしの話を聴いてくれる! そのことは、本当に、感謝しています! では、また!!」
アンナは一息に言うと、また早足で門を出て行った。
オレとオデは呆けた顔で彼女を見送り、それからどちらからともなく、笑い始めた。
「よかったですど」
「ああ」
缶に戻した焼き菓子を一つ、摘まんで齧った。
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