うつくしいものを

兎紙きりえ

第1話

これは古いお話です。


ある男が祈りを捧げていたころのお話です。




男がいつものように暗がりの中、夜と燭台の蝋が落ちるまでの時間に


祈りを捧げていたところでした。


男の前に、どこからか光が降りてきたのです。


それは神とも妖精とも星とも言えぬ小さな光でありました。


男はたちどころに喜び、けれどもすぐに姿勢を正すと祈りの言葉を述べました。




「大いなるもの、私を生んだものよ。


貴方は一体何を望むというのだ。


私には何もない。


悠々と空を飛ぶ大きな翼もなければ、


ビロードのように艶やかでもない。


香り高い蜜で癒すことも出来なければ、


寂しい空を埋めるほど青く光ることも出来ない。


あぁ、私には何があるというのだ!


何をくれたというのだ!


何をしろというのだ!」




男の声が次第に大きくなるにつれ、


目の前の光もまた大きくなっていきました。


しぱしぱと途切れ途切れな輝きは一様にその色を変え、


いつしか男に似た姿形となって、言いました。




「うつくしきものをお持ちなさい。


うつくしければ、それがあなたの価値となるでしょう」




それだけ言うと、光はまた色を変え、


しぱっ、と一度煌めいたと思えばすぐに消えてしまいました。


蝋が落ちて、男だけが取り残されていました。




「うつくしきもの。それを探さねばならぬ」




男はすくりと立ち上がり、昇ってきた太陽が沈んでは何も見えぬからと急いで


外に出ました。


丁度、空に明るく、白い白い、靄が広がる寸前のところです。




「どれ、うつくしいものと言えば花だろうか。探しに行かねば」




男はうんと丈の長い外套を着て、つばのついた帽子を目深に被ったという風貌で、うつくしきものを探しに行きました。


いくらか歩いたころ、男の目の前には一輪、咲いていました。


ふわんと柔らかい、いい匂いがして、男はかがみこんでは、その花に顔を近づけました。


さて、この花は美しいといえるだろうか。花はうつくしきものであろうか。


男の黒い瞳が花の姿を捉えていきます。


数本の赤い筋が通った白い花弁の内から薄黄色の蕊≪しべ≫の伸びるのを眺め。


明けに降っただろう霞がその上を滑り、萼≪がく≫から茎へと伝っていくのを眺め。


もっとよく見ようと手を伸ばした時でした。


どこからか、ぱきりと、手折った音が聞こえてくるのです。


男は途端に怖くなり、気が付けば、手を引っ込めて、わぁっと逃げ出しておりました。


帽子の中に乱雑に押し込んだ髪からたらりと汗が流れて、ようやく男は息をつきました。


花は既に道の遠くにあり、白い花弁の上に流れていた赤の筋も、杯のように支えていた萼すら判別できない其れを、男は眺めて思うのです。


あれはうつくしきものであったのか。


確かめたくとも、またあの音を聞くのが怖く、男は一人立っていました。


そうして、いくらか風に頬をあてられているうちに、きっとうつくしきものは別にある。


男はそう思うようになりました。


男は、花を背にしてまた、うつくしきものを探すことにしました。






男が道を歩いていました。でこぼこした、てんで歩きにくい轍の道です。


ぽちぽち生えた名も知らぬ草木を避けながら、手ごろな石ころをこつこつ足で弾いては歩いていました。


その時です。男の頭上から不思議な音が聞こえてきました。


ピーヒョロロ!


パレードに並ぶ硝子の笛にも似た音が甲高く響いたのです。音は男の頭上から鳴っていました。


ハッとなって、見上げると、遥か上の雲に被って黒く鋭い影が空を裂いて飛び去って行くところでした。


トンビの影です。トンビが空を飛んでいるのです!


土色の体を大空に預け、ピンと張った翼はそのうちに風を受けてはトンビの体を遠く、遠くへと運んでいるようでした。


慌てて男は追いかけることにしました。




トンビは静かに佇んでいました。


渓流からの続き、少し流れの緩くなった、一際ごろっとした大石の上に器用に立っているのです。


細い枝の多い低木の生い茂るのを掻き分け、流れの中へと踏み入れました。


きらきらと光を弾く水面が揺らめき、陽炎のように水底の様子を歪めていきます。


石に堰き止められた、無数の羽虫の死骸の集まるのにも伝播したのか、小さな翅の光を波に乗せては川の流れていく


その景色の中であって、トンビはまるで絵画のようにじっと動きません。


ただ、トンビの、黄色で縁取られた黒の奥に、そろりと近づく男の姿が映りました。


外套をじゃぶじゃぶ濡らして進む男の姿です。




「どれ、捕まえてその羽根を見てやろう。茶黒の毛先は大層美しいに違いない」




男はトンビに手を伸ばします。トンビはやはり、じっとしているのです!


男の手がトンビの首に触れようとしたその時でした。


ぱきり。男の耳元であの音がしました。


花でもないのに。男の額に嫌な汗が流れました。


男はまた、慌てて手を引っ込めるのでした。


すると、急にトンビはその身を翻し、空へと上がっていきました。


だらりと手の垂れた男を一瞥もせず、随分高くなっていた陽を切って飛んでいくのです!


男はまた一人立っていました。


風はトンビの居た感触を確かめるように、しきりに吹いていました。


結局、うつくしきものとはなんだったのか。


うんと考えても分からないので、結局また歩くのでした。


男は川のままに、流れに沿うように、ごつごつした石のばっかりで埋め尽くされた河原を歩くのでした。




「うつくしきもの、うつくしきものとは何だ。それは持てるものだろうか」




男は歩いて、そろそろ陽も空の半分を超えた頃になった頃。


突如として風がびゅう、と吹きました。


男はそれまで穏やかな風しか知りませんでしたので、つい、持ち上げていたつば付きの帽子が風に持ち去られるなど、到底考えてはいなかったのです。


つば付きの帽子は、ひらひらとそのつばを広げては、まるで先程のトンビのように風にのり、けれども支えきれずにちゃぷん、流れの上へと落ちてしまいました。




「これはいけない!」




男は川の淵に近付いて、こちらへ流れてくるのを待ちましたがどうにも自然な川というのは意地悪なもののようで、あっちへさらさら、こちらへさららと、一向に淵に運ぼうとはしてくれません。


先回りをして掴もうにも苔むした河原の淵の石はすぐに足をとろうと、しめしめとその隙を狙っているようでした。


水面の中にきらりと光るのが見えたのです。




「うつくしきものだ!」




乾いてきたばかりの外套の裾がまたじゃぶじゃぶと濡れるのも気にせずに、川に攫われたつば付きの帽子は近くの石に引っかかっていましたがそれも気にせずに、男はずんずんと川へ入っていきました。


水底はまたも陽炎の様子で揺らめいて、必死に光を隠すようです。


男が手を伸ばすと、ぱきり、音が鳴っては泥棒への罠と言わんばかりに水の冷たさが手を刺しました。


それでも男は引っ込めません。


歪もうにも、すぐそこにきらんと光るものがあるのですから。




「よぅし、これなら持てる。持てるほどのうつくしきものだ」




だがどういうわけか、掬っても掬っても水底に確かにあった光るものは拾えません。


掌の上に収まるのは決まって小粒の、まあるい、細かい穴のあいた石ころばかり。


男の瞳は確かにその光を捉えているというのに、手を伸ばしてその正体を探れば、たちどころにその姿を隠してしまう。


かと思えば、手を引いて暫く波が落ち着いた頃になってまた水底できらんと光るのを繰り返している。


暫くそうしていたのでしょう。光るものが赤く、光り方をかえるようになってから男は知りました。


光というのは宝石だとか、砂金のようなそれではなく、石の間の小さな隙間が空を切り取っていただけなのでした。


くたくたになった男は、つばの付いた帽子を拾い上げ、淵へと上がっていきました。


男が河原へ上がるころには、陽が傾いているのでした。




ふらふらと、男は歩いています。




「うつくしきもの、うつくしきものはなぜ持てぬ」




あちらこちらを探し回り、いつしかあんなに高かった陽も、山間の陰に隠れようというのです。


けれども、男の手の中にうつくしきものはありませんでした。


ぱきり、ぱきり。しきりに鳴る音を恐れては何一つとして男は持てなかったというのです!




「おうい!光よ、あの時の大いなるものよ!」




男はたまらず叫んでいました。返事はもちろんありません。


彼はうつくしきものを見つけることはできても、何一つ持っていないのですから。


それから、のっぽの杉の大きく伸びた影の先に寝ころんでいたところです。


ふと、瞼の裏が紅く染まり、ぼんやりと次第に熱くなっていくのです。


男が目を開けると、そこには空に浮かぶはずの星が一つあるのでした。


星の一つが落ちてきては言うのです。




「君には目がある、耳がある。うつくしいと感じたなら、そのような君はうつくしきものさ。なにより恐ろしさを感じたのなら、君はずっとうつくしきものさ」




それだけ言って星は空へと昇っていきます。




「では、どうしろというのだ!」




男がまたも叫ぶと、別の星が落ちて言いました。




「君は既にうつくしきものを持っている」




また落ちてきた星が言いました。




「そうさそうさ。君は歩いてうつくしきものを見つけたじゃないか、それは尊いと言えるだろうさ」




口々に星は告げます。




「大いなるものは私にうつくしきものを持てと言った!」




「そうさ」




「ではなぜ私に手をつけた!目と耳さえ尊いのなら、歩くことが尊いというのならなぜ手を付けた!」




「さぁ、僕らは君をつくったわけではないからね」




そして、ようやく思い至ったのです。




「うつくしきものが分かるというのなら、伸ばすような手などいるものか!うつくしきものを暴≪あば≫いてしまうよりずっといい!」




星は悩んだ後に言いました。




「仕方がないな。望みとはちがうだろうけど、これも否定するにはうつくしいのさ」




星につられ男は空へと上がりました。


そうして黒い瞳は夜の暗がりとなったのです。


うつくしきものを眺めては、たまにきらとした涙を流して過ごすのです。


黒の瞳を流れる、輝くのを見上げる誰かが言いました。




「今日もまた、夜は美しいのだな」

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うつくしいものを 兎紙きりえ @kirie_togami

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