第7話 傍観者
十七世紀のイギリスの思想家、トマス・ホッブズは、人間を利己的な動物であると評した。
万人の万人に対する闘争。
いくら悲劇を繰り返し、後悔し、知恵を得たところで、人類は、この呪縛からは逃れられないのかもしれない。
日常というのは一時の夢のようなものであり、目が覚めたら、まるで違う光景が広がっている。
日常と非日常は表裏一体。ほんの些細なことで入れ替わり、塗り替わる。そんな曖昧で脆いものだ。
崩れたビルに光を失った信号機、ひっくり返った車の群れ。そして地面に横たわる無数の遺体に、終末を告げるようなサイレンと避難を呼びかける機械的な女の声が響いている。
ルージュはここまでに、そんな地獄のような光景を見続けてきた。近くでは戦闘が続いているのだろう、金属のぶつかり合う音がする。
裏路地に入ろうと左に曲がれば、その先は、崩壊した建物により塞がれていた。馴染みの雑貨店は押しつぶされて、可愛らしい雑貨が地面に転がっている。
くそったれ!
ルージュは舌打ちをしてバイクを反転、まだいくぶんマシな大通りへと戻る。そして再びフルスロットルで走り出す。
ありゃあ、地球に現れたレイダーだ。あいつら、宙域連合相手にも喧嘩をおっぱじめるつもりなのか?
しばらく行くと、やかましいエンジン音が近づいてくるのが分かった。瞬間、ルージュの周囲が暗くなる。
空を見上げれば、宙域連合軍のレイダー・コルスタッド一機と漆黒のレイダー二機が、ちょうどルージュの真上を飛んでいった。
通り脇にある公園を見れば、追いやられて身を寄せ合う人々の姿があった。大人も子供も、皆、不安げに空を見上げている。
おい、やめろっ! ここには、ガキ共もいるんだぞ!
ルージュはその真紅の瞳に怒りを込めて、戦闘を繰り広げるレイダーを睨んだ。もちろん、そんなルージュの思いなど届きはしない。
コルスタッドは、飛んできたビームをシールドで弾き、突っ込んでくる漆黒のレイダーをかわして距離を取る。
数的不利にしては善戦している。けれどコルスタッドは一世代前の量産機。状況は芳しくない。
レイダーから剝がれた破片が大きな音を立て地面に落下し、周囲に土埃が舞い上がった。それは公園からすぐ近くの場所であり、そこにいる人々は頭を抱え、子供を守る様にしてうずくまる。
悲鳴すらも上がらない。泣くことさえも許されない。数年前に経験した、繰り返さないと誓ったはずの絶望だ。
まただ、また私は、こうして黙って見ていることしかできないのか……。あの頃となんら変わらずに、ただ自身の無力さに腹立つだけで。
ルージュは怒りに身を任せ、バイクのハンドルに右拳を振り下ろした。血と汗とが混じり合い、地面に滴り染みとなる。
その時、上空で激しい衝撃音が響く。
それは、コルスタッドの胸部に漆黒のレイダーの放った回し蹴りが直撃した音だった。コルスタッドは後方に吹き飛び、制御を失ったのか、そのまま市街地へと落ちていく。
マズい!
コルスタッドは背部からビルに衝突し、空を見上げるようにして動きを止めた。それを好機と漆黒のレイダーはコルスタッドを見下ろして、ビーム兵器の銃口をその胸元に向けた。
漆黒のレイダーの指先が引き金にかかる。コンマ何秒、その銃口から鮮やかな粒子が放たれて、あのコルスタッドのパイロットは、痛みすらも感じずに跡形もなく消え去るだろう。
なんで……、なんでこんなことになるんだよ!
第五コロニー・サースヴァインは、先のゼイン宙域紛争では中立を掲げ、その被害もほとんどなかった。けれどあの悲惨な現状は毎日のように報じられ、多くの人々の心に暗い影を落とした。
そしてそれは、当時、学生生活を送っていたルージュもリンファも例外ではなかった。ルージュの父はゼイン宙域紛争において難民支援業務に携わっており、その際に命を落としている。
クソっ!!!
ビーム兵器の銃口に粒子が浮かぶ。それを見て、ルージュは眼を閉じた。その次の瞬間、激しい金属のぶつかり合う音がした。
見れば漆黒のレイダーにオレンジカラーのコルスタッドが体当たりをし、その右腕をサーベル・ベルテッドで切り落とすところだった。
漆黒のレイダーは腰元のダガーを抜き取ると、コルスタッドに向かい突きを繰り出す。けれどコルスタッドのパイロットの技量は相当なもので、それをかわすと、漆黒のレイダーの胸元をサーベルと貫いた。
そこがコクピットだったのだろう、漆黒のレイダーの腕が、こと切れたかのようにダランと垂れた。コルスタッドがベルテッドを引き抜くと、漆黒のレイダーの胸元で火花が散った。
すごい……
コルスタッドのレイダーを掴むと、そのままどこかへと飛んでいった。その背中が見えなくなると、ルージュはバイクを走らせて、ビルに寄り掛かるようにして倒れたコルスタッドに向かう。
落下の衝撃でだろう、コクピットのハッチが開いていた。けれど周囲には、パイロットの姿はない。ルージュはバイクのエンジンを切ると、警戒しながらコンラッドに近づいた。
「おーい、大丈夫かー?」
ルージュの言葉に、反応はない。ルージュは逡巡した結果、コンラッドに掌の上によじ登り、慎重にコクピットへと近づいていく。
持ち前の身体能力のおかげだろうか、ルージュはコクピットの腹部へとすんなり辿り着いた。そしてコクピットを覗き込む。
そこには、額から血を流した黒髪の女の姿があった。年齢は二十代前半くらいだろうか、ひび割れたヘルメットと眼鏡が脇に転がっている。
ルージュは素早くコクピットに乗り込むと、女の脈を取った。そして息があることを確認し、ホッと胸を撫で下ろす。
その時だった、空間を切り裂くような轟音が、こちらに向かい近づいてくるのが分かった。
ルージュは咄嗟にコクピットのハッチを締めた。すると障壁が透過され、百八十度、外を見渡せるようになる。
頼む、気づかないでくれ。
ルージュは祈った。荒い呼吸で前を見据えて、レバーを握りしめたその手は、小刻みに震えていた。
ルージュの父と兄は、共にレイダー乗りだった。なのでルージュにも、レイバーの操縦経験がある。けれどそれは民間用で、軍用となるとまるで違う。
来たっ……
索敵レーダーに示された赤い点が、もの凄い速度でこちらに向かってくる。そしてそれは、すぐに眼前に現れた。
漆黒のレイダーは動きを止めると、ルージュを見下ろす。けれどこちらに敵意を向けている様子はない。
そのまま、どっか行っちまえ。
その願いも虚しく、漆黒のレイダーは、手にしたビーム兵器の銃口を高層ビルへと向けた。
ルージュは、そちらにカメラを向けて拡大する。すると高層ビルの窓には、逃げ遅れた人々の姿があった。
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