第8話

ふわり ──── と甘い香りが鼻腔をくすぐる。


甘ったるいわけではなく、柑橘系のフルーツのような爽やかで心地好い香り。シトラス系のコロンか何かかな……それに、先輩の鼓動が耳に伝わってくる。



ふう、と私は息を吐いていた。無意識のうちに。



安心したのだ、理由もなく。親とはぐれた子供が、再会した親に抱きしめられた時のような気持ち……もう何も怖いことはないんだと。



何故かはわからないけれど、彼が笑ってくれたこと、涙を拭いてくれたこと、抱き寄せてくれていること……全てが私を安心させた。






殺気が消えたわけではない。むしろすぐ近くに迫っているのがわかる。

それでも、不思議なことに私は今が一番落ち着いていた。



目を閉じて、深く、胸いっぱいに息を吸う。

細く細く、惜しむように、ゆっくりと息を吐く。

私の中に、この人のコロンの香りが満ちて行く。


まるで包み込まれていくようで、ともすれば眠ってしまいそうになるほどの安心感。





まだこの人の名前も知らないのに、その胸に抱き寄せられて ──── それでも、この人の事をこんなにも信じてしまっている。



怖かったから? すがれるものがここにしか無かったから?



自分に問いかけても、答えは「否」。

本能的にとしか言い様がないが、理屈なんて全部どこかへ放り出して、彼を受け入れていた。


信じていいんだ ──── と。






……ああ、そう言えば修行はさっぱりな私だったけど、おばあちゃんにひとつだけ「天賦の才がある」って誉められたことがあったんだ。



「人を見る目」。



おばあちゃんですら見抜けなかった悪い人のことを「あのおじちゃん嘘つきだよ、おばーちゃんに嘘ついてるよ」って言い張って、撃退しちゃった事があったっけ。

その人は後日、詐欺の容疑で逮捕されたとニュースで流れていた。

あれ以来おばあちゃんは初めてのお客さんが来ると必ず私を同席させるようになったのよね。




最初にこの人に怯えながらも、どこか感じた違和感。


きっと、こういうことだったんだ。

この人は…………きっと。






「行った……か」



危うく、懐かしい記憶とともに眠りに落ちかけていた私の耳に、彼の胸から声が響いてきた。


どのくらいの時間が経ったのかはわからないが、迫っていた殺気はどうやらこの部屋を通り過ぎて行ったようだ。


胸に押し付けるようにして抱き寄せていた私の頭をゆっくりと床におろし、彼は深く息を吐いた。


離れていく温もりと香りに、私は思わず眉を寄せる。



くん、と不意に手が引かれて持ち上がり、気付く ──── 私の手は彼のベストをきつく掴んだままで、彼が身体を起こそうとしたから引っ張られてしまったのだ。





「ああ……怖かったか? ……まぁそりゃそうだよな」



動きを止めたまま、彼はよしよしと私の頭を撫でてくれる。

が、ふと何かに気付いたのか私の顔をまじまじと見つめた。



「……先輩?」

「いや……よく考えたらこれって随分とオイシイ状況だなと思ってな」

「オイシイ状況?」



ニヤリ。

彼は口の端を上げて笑うが、何のことだかさっぱりわからない。



「お楽しみは後でって、言ったもんな?」



そう囁かれて、ようやく床の上で覆いかぶさられている事を思い出したが、私が動くよりも彼の行動の方が早かった。









──── 柔らかくて、気持ちいい。


うっかりそんな事を思ってしまって私は自分にツッコむ。

違うでしょ、今思うべきはそんなことじゃなくて!


だって……キス、されてるのに。


ああ、ファーストキスはレモン味とか嘘なんだなぁ……いや本気で信じてたわけじゃないけど……ってそれも違うでしょ!






このままここで、美味しくごちそうさまされてしまうのだろうか。



それ自体はもちろん「まぁいっか」とは思えるわけもないんだけど、こんな事をされてるのにこの人に対して未だに怒りが沸いてこないのには、正直かなり困っているわけで。

ここまでされても、私の本能は全力で「この人は大丈夫! 信じよう!」ってなっちゃってる。





平手打ちのひとつでもお見舞いすればいいのに、つらつらと考え事をしているうちに彼は唇を離した。

そして事も無げに言うのだ。





「ごちそうさん。さっきの礼として貰っとくぜ」

「れ、礼?」

「ああ、変なのが来たろ? 守ってやったんだし、ボディガード代としてこれくらいの役得はな」

「へ、変なのって……オバケだったんですか!?」



礼うんぬんよりもそちらの方が一大事、というか。

幸い彼のおかげて、「あれ」が何だったのかまでは見ていないのだ。




「ぷっ! オバケってお前……まーそんなようなモンだけどな」



さ、行こうぜと手を引いて立ちあがらされ、服の埃を2人して払い落とす。




何だか振り回されっぱなしみたいでちょっと悔しいというか自分が情けなくなったけど、彼がこれ以上「お楽しみ」を続けるつもりはないらしいと分かって。



ようやく私は笑顔を見せた。



「お、初めて笑ったな。可愛い可愛い」



よしよしと頭を撫でられて、思う。

この可愛がり方って、完全に子供扱いか小動物にするそれよね。

そりゃ、手を出す気にならないはずだわ……。



でもまぁ、それならある意味安心してこの人と居られるわけだし……まぁ、いいかな。

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