第7話
──── それは、5階の特別教室の説明が済み、4階へ降りてすぐの事だった。
ここは各学年の商業科が1クラスずつと……とクラスのプレートを指した彼が、ぴたりと動きを止めたのだ。
彼の見つめる廊下の先に人影がチラリと見えたかと思うと、いきなり手を掴まれて近くの部屋に引っ張りこまれた。
5階になかった特別教室のいくつかはこの階にある、と言っていたから、ここはその特別教室の準備室だろうか。
狭いその部屋は入ってきた扉以外に窓はなく、その扉にはまっている窓も磨りガラスになっているため、身を隠すには都合が良さそうだった。
伏せろ、という言葉とともに床に引き倒される。背中を支えてくれていたから痛くはなかったものの、突然のことに驚いてしまって身を起こすことも出来ずに彼を見る。
生徒指導の先生……とかかな?
授業をサボってうろうろしてるわけだから、そりゃ見つかればこっぴどく叱られるだろうけど……
でも、それにしては彼がやけに真剣に廊下の方を見ているのが引っかかる。見ている、というより警戒している、というか……
私は気になって扉の方を見ようと少しだけ身を起こした。
彼はそれに気付き、私の方へ向き直ると床に両手をついてその中に私を閉じ込めて、一気に顔を寄せて。
頬がわずかに触れ合い、ぎょっとして動きを止めた私の耳にごく小さな声で彼は囁いた。
「じっとしてろ」
──── 私が床に倒れていて、彼が上から覆いかぶさっているこの状況は、傍から見れば “ 押し倒されて、今まさに喰われる寸前 “ なのだろうが ────
私は、それどころではなくなっていた。
じっとしてろと言われるまでもなく、動けなくなったのだ ──── 「あれ」が居る。
まだ修行中で、全く対処はできない……おばあちゃんからもらったお守りも、教室の鞄に入れたままだ。
ビリビリと全身で感じるのは冷気にも似た何か。
そして目の前の彼から感じる最大級の「警戒」。
息をするのがやっとの状態で、目の前の彼を見つめた。
私を隠すように覆いかぶさっている先輩。
顔は廊下を向いていて、喉仏がぐっと突き出した首に汗が伝っていた。
この部屋は暑い。この時間は使う予定がなかったのかクーラーも入っておらず、窓もないから酷く蒸していた。
ただ、彼が汗をかいている理由はそれだけじゃないんだろう。私の方は冷や汗をかいているけど。
……ぼんやり考えながら見るともなく見ていた彼の喉が小さく動いた。唾を飲み込んだらしい。
ひゅっと息を吸う音と共に彼は私をまるで抱きしめるように覆う。
私がこの両手を彼の背中に回したら、抱き合っているようにしか見えないだろう。
だけど彼もそれどころではないようだった。
確実に。
近付いてきているのだ。
「何か」……怖いものが。
今まで感じたこともない程の寒さ。
動かない身体。
頭の中で鳴り続ける警鐘。
イノチ ──── ガ ──── アブナイ
…………そう。
私が感じていたのは、凄まじい「殺気」だった。
昔の剣豪や武将が気迫だけで敵を圧倒した、なんて話はよく見かけるけど。
ドラマやマンガ、小説を彩る演出だろうと思っていた。
でも今、まさにそれを体験しているんじゃないだろうかと思う。
対峙しているわけではないけれど、確かに「居る」。近付いてきている。
身体が動かないのは、正確には金縛りではないのだ。
動かそうと思えば動くだろう、手も足も。
今、私の身体を縛っているのは他ならぬ私自身なのだ。
動いてはだめ。
動いた瞬間に、命はないよ。
私の本能がそう警告するのだ。だから私は、指一本動かせない。
だんだんと近付いてくる殺気。
恐怖はもうピークを振り切りそうだというのに、気を失うことも出来ない。
いっそ気絶してしまえたら、どんなにか楽だろうに。
小刻みに震える身体を持て余し、やり場のない恐怖が涙を生む。
ぽろり、と目尻からそれはこぼれ落ちた。
彼は扉を睨み付けていたが、私が震えている事に気付いたのか視線を戻し、零れた涙に当惑したようだった。
少し逡巡したが、床についていた片手を離してズボンでゴシゴシと拭い、私の涙をそうっとなぞった。
そして、人差し指を立てて唇に当て、声を出すなよと伝えてくる。
私が頷くと、彼は少し笑って口の動きだけでゆっくり、「いい子だ」と言ってくれた。
そして私の頭の下へ腕を潜り込ませて持ち上げ、胸元へと押し付けた。
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