第2話

 何分か彼女の音色に耳を傾け、ひとしきり基礎が終わった頃を見計らって、私は声をかけた。出会った頃から気になっていたことだった。

「どうしてここで、弾いてるの?」

 彼女は一旦弾くのをやめて、私を見つめる。ほのかに私を責めているように見えるのは気のせいだろうか。

「はじめはなんとなくだったわ。なんとなくいいなって思って、なんとなく始めた。それだけ。全部に全部、意味があるとは思わないことね」

 最後は嘲るように呟き、ギターに視線を落とした。その瞳には疲れや哀れみなどの負の感情が隅々まで染み渡っているように思えた。

 おもむろにギターを構え、一弦を鳴らす。お腹の中を震わせるような優しい、じんとした低音が響いた。

「そう…だよね。なんかごめんね」

「謝ることじゃない。ただ、冷たい言い方だったことはこっちが悪かったとおもってるわ。ごめんなさいね。なんとなくとか曖昧な理由だけれど、ちゃんと感情をもって弾いているの。はじめから、そう言えばよかった」

 萎びた声になって彼女は言った。結構繊細らしい。気にし過ぎ、とも取れるだろうか。似ている。そんな、どうでもいいことを思った。

 彼女は咳払いをしてまたギターを弾き始めた。指先からはみ出るみたいに音が地面に落ちて山肌を下っていく。色づいた音符は土の養分になっていくように感じられた。

 はっと彼女が息を吸った。その瞬間から。先ほどまでの単調な音色とは違ってまさしくおんがくが鳴り始めた。

 私にはちゃんとしたおんがく的な知識がないからよくわからない。ただ、とても優しい、彼女にしか出せないモノなのだろうなと思った。

「綺麗だね」

 私の言葉にふっと彼女は笑った。

「いい音じゃないの? きれいとは少し違う気がするけれど」

「綺麗な音ってものもあるもんだよ」

 私の言葉に彼女は「それはあるかもね」と、そっと同意した。その声色はやけに優しくて安心した。どこかつかみ所の無かった彼女の事がわずかながらに形を保っているように感じられたからだ。私の感じていた凜とした声の持ち主という曖昧なものだけではなく、それ以外にも温かい声をするんだなと、人ごとみたいに感じた。

 彼女はしっとりと曲を弾き始めた。私が曲と認識できた訳はひどく単純で、単調でわかりやすい音色では無く、しっかりと流れるように複雑な音色が聞こえたからだった。

 私も人並みに曲を聞く方だったら彼女の弾いている曲くらいはわかった。最近SNSで人気になり始めたもの。しかし彼女には似合わないもの。なぜならば歌っている人の声がはっきりと、ハキハキとした発音をするからだ。まるで声に板を挟んでいるみたいな硬いはっきりとした声。その歌声を彼女が出せるとは到底思えなかった。

 少女が息を吸う。その息がわずかに震えているように思えたのはきっと私の気のせいだろう。

 彼女が声を空気に溶かした。私の不安もろとも、溶かしていった。

 彼女は元のボーカルのような声にはわざと寄せずにその曲を歌い始めた。私のフィルターがかかっているにしても、それは綺麗な歌声で、優しい声で、とても上手だった。彼女にしか表現できないものだと直感的に理解した。ただ、歌が楽しいとか純粋無垢な感情だけじゃこんな歌は歌えない。きっと普通の人が体験したことの無い人生を体験してきたのだと理解した。

 一曲歌い終えて、彼女は手をひたりと止めた。口を閉じて、空を見上げる。すっかり黄昏色に染まったその瞳は澄み切っていて私以上にこの世界をはっきりと鮮明に写していたように思える。夜の雲は遠いなとか、夜の明かりはこんなにも鮮明に美しいのかとか。彼女から見える景色はどれほど鮮明で色鮮やかで、さみしいものなのか、私にはわからなかった。わからない方が良いと思う。私なんかがわかってはいけない。彼女の世界を私が侵して良いはずが無いのだ。そう、思った。

 日が完全に落ちきってしまって、視界が闇に染まった。彼女の姿すらわからない神聖な空気の中、彼女が聞いてきた。それは世界の真相を聞いてくるみたいに真剣な声色に思えた。

「あなた、なまえは何て言うの?」

 真剣な声色だったから、一瞬何を聞いているのかわからなかった。名前を聞いてくる雰囲気なんかじゃなかったから、彼女の言葉を理解した瞬間思わず笑ってしまいそうになった。

「私は、須賀谷日織すがたにひおり。日常の日に機織りの織、または日を織る、で日織」

 暗闇の中吐き出された私の言葉はまるで私の言葉じゃないみたいに軽くて、自分の声ってこんなにも明るかったかと驚いてしまうくらい、名前みたいな響きを持っていた。

「須賀谷、日織。いい名前ね。日を織るなんていいじゃない。あなたらしいわ」

 彼女は流れるように私の名前を褒めたあと、すっと深く息を吸った。

「あなたの、お名前は?」

 私が問いかけると彼女は先ほど吸った息をまた元あった場所に戻すみたいに吐き出した。

「日辻、あきら。日にあたった辻は明るい、とでもいうのかしらね。あなたがいったみたいに紹介するならば」

 彼女はそう言って笑った。掠れた、薄い笑い声だった。


 明と少しの間話して、もう暗いから帰ろうかと二人で山を下りた。彼女はスタスタと、まるで昼の山のように軽やかな足取りで下っていった。私はそれについていく。

 明は私の家とは反対方向らしく、手を振って、彼女はギターケースを揺らして帰路についた。彼女の後ろ姿からはひしひしと悲しみやそれに影響して醸し出される儚さが伝わってきていた。

 家には当たり前のように明かりがついていた。お母さんが帰ってきているのだろう。

「ただいま」

 扉を開けて、家に入る。夕飯の匂いがした。

「日織、おかえり。こんな遅くまでどこ行ってたの?」

「ちょっとね。人と会っていた」

「彼氏? 彼女?」

「ともだち」

 あはははと楽しそうにお母さんは笑って夕食の準備を進める。

 手を洗って、自室にスマホを充電しに行って、もう一度キッチンに戻る。

「お母さん、まだアコギって残してたよね?」

 私が聞くと、お母さんは料理の手を止めてじっとこちらを見つめる。まるで幽霊でも見るみたいな目だった。

「残っていると思う……けど、もう何年も弾いてないでしょ? 弦とかいろいろ、ガタが来てると思うけど」

「それでも大丈夫」

 私は自室の隣にある物置になっている部屋に入って、電気を付ける。物の散らかった、汚い部屋だった。その中から埃の被ったギターケースを見つける。お母さんが中学生の頃から使っていたもの。お母さんが最後に使ったのは文化祭だと、あの頃のお母さんは本当にすごかったと、よくお母さんの昔馴染から聞いた。

 開けるとアコースティックギターから独特の匂いがした。弦の錆び付いた匂いと乾燥剤の匂いが混じっているのだろうか。少しつんとする、刺激臭のあるものだった。

 私はそっと弦に触れる。久しぶりに触れる弦は冷たくて、硬くて、時間の流れを感じた。

「ごめんね」

 呟いたのは、何に向かってだっただろうか。過去の私に向かってなのか、それとも未来の私に対してか、このギターに対してか。

 一回、軽く弦を弾く。遠くまで響いていきそうなその音色はやけに耳の中で木霊した。冬の残香のようなさみしい音色だった。

 何度かギターの弦を弾いて、また感傷に浸る。もう、ひどく昔のことだった。私がこのギターを使っていたことも、私が前向きに生きていた頃のことも、全部風化したものだった。それでもどうしてか、砂上で光り輝いているのだ。崩れ去ったというのに、砂になったはずなのに、なぜか砂の中で砂が光っている。そんな感覚。集めたところで意味は無い。だって、その頃の感覚はもう元には戻らない。砂は砂でしかなく、それ以上もそれ以下もない。私は向いていない。音楽は。それは痛いほど思い知って、苦しいほど悩んで、結局やめた。

 けれど、今なら、戻れるだろうか。あの頃に。ギターを見るだけで泣きそうになる事もなくて、ギターを弾けば自然と笑える、あのときに、戻れるだろうか。

 コンコンと後ろからノックする音が聞こえた。続けて、やさしい声で。

「ごはんだよ」

 ゆったりとした動きでお母さんの方を向く。お母さんはエプロン姿で立っていて、その顔はほのかに笑っていた。うれしいのだろう。自分が使っていた物を娘がどのような用途であれ使うというのは。

「明日、弦買ってこなきゃね」

 お母さんのその声がやけに感傷に染みた。


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