染まる黄昏

宵町いつか

第1話

 その日、山を歩いていた。

 黄昏時、春らしさの感じられない薄ら寒い風が吹いていた。山の葉っぱが揺らいでいて、夕日の光を透かしている。私は茫洋とした意識の中、歩いてどこかを目指していた。どこを目指していたのか、どこを夢見ていたのか、もう覚えていない。思い立ったらすぐ行動に起こす人間だったから、その時も例に漏れず言いようのない焦燥感に似た感情に突き動かされて動き出したのだと思う。

 初めて、そのときの行動に意味を見いだせたのは、彼女の音が聞こえたから。どこからか聞こえる、優しい音色。中性的な声のような、優しい弦の弾く音。弓を引くときのようなカンっとしたしっかりとした音ではない。どちらかと言えばハープやそれに近しいものだと思った。知っている音だとわかっていながら、私は必死にその音の正体を探していた。もう、喉元まで出かかっていた。ああ、あれの名前はなんだったか。そう必死に考えを巡らせていると、その弦を弾く音にこれまた優しい声が重なった。鼻歌だった。空気に溶けるみたいなその優しい鼻歌はより、私の心を躍らせた。同時に、動悸がやってきた。気持ちが悪いくらい、苦しくなった。毒みたいだった。

 山を登り切ると広場があり、中心には母屋が建てられている。母屋に備え付けられている汚らしい椅子の上に少女が座っていた。夜空に似た別物の空を背景に、その少女は凜とした姿勢で座っていて、その弦を、その髪を、その服を、黄昏の風にあてがっていた。

 息が漏れた。感嘆と言われる類のものだった。目の前に存在している少女の存在にあてられて、少女の雰囲気にあてられて、私は思わず息を飲んだ。自分の吐いた感嘆の息さえ飲み込んだ。感嘆、なんていう淡泊な言葉では表わせられない気がした。

 一曲、終わった。ちょうど、日が落ちた時間だった。

 少女が後ろを振り向く。薄く光る双眸が私を貫いた。少女の双眸には星々が詰まっていた。そう錯覚してしまうほどに美しい瞳だった。

 少女は肩から提げているアコースティックギターを傍に立てかけられていた黒いケースの中に入れた。その手慣れた手順さえ、洗練された一つの動きのように思えた。きっと、彼女の着けていた腕時計の金色の縁のせいだろう。金の縁がきれいに伸び切ってしまうから、やけに幻想的に見えたのだ。

「どうも」

 少女は私に向かって会釈をして、隣を通り過ぎた。細い、儚い、美しい声色が私の耳朶を打って、一瞬水底に落ちたみたいな独特な感覚に陥る。誰も、私の事に気が付いてくれないみたいな、いろんな絶望感の籠もった声色だった。

 彼女がどんな人生を生きてきたのか、わからない。彼女がどのような感情で私に会釈をしたのかわからない。けれど、きっと、彼女は、苦しんでいる。そう、思った。初対面なのにそう思えてしまった。それほど、彼女の声には絶望感や切望感が滲んでいた。一度落ちた人間しかわからない、そんな、曖昧なモノ。

「ねえ」

 私の声が彼女の背中を突いていた。

「明日も、来る?」

 来る、多分。そう後付けされたみたいな彼女の適当な声は妙に私を納得させた。

「じゃあ、明日、待ってる。夕暮れ、ここで」

 半ば無理矢理、私は見知らぬ少女に約束を交わした。彼女は私の方なんて見ずにふーんなのかんー、なのかどちらかわからない曖昧な発言をして下山していった。彼女の纏う、その独特な雰囲気に、今にも消えそうなその姿に、死にそうなその姿に、私はやけに釘付けになってしまって、私はこの人と死ぬんだとか、意味のわからない馬鹿みたいなことを考えた。

 次の日、私は少女よりも早くに山の頂上にある母屋に座っていた。日はまだ赤い。

 そよ風は私の髪を弄んでいた。

「本当に来ているなんて思わなかった」

 背後から涼風のような声が聞こえた。弾かれるようにして振り向くと昨日の少女が黒いケースを肩から斜め掛けにして立っていた。

 服装はまるで空を模したみたいな色合いのスカートに白と灰色が斑になっている曖昧な色をした薄手のシャツ。神様の涙の後のように見えるそれは彼女の声によく似合っていた。肩甲骨辺りまで伸びたきれいな濡れ羽色の髪はまだ赤い日光によく映えていた。

「来たよ。こっちから頼んだんだから来るに決まってるでしょ」

 でも、と彼女は言葉を続けようとしてすぐにやめた。それから少し考えるような素振りを見せて、頭を軽く振って考えを散らした。

「――そうね」

 絞り出された言葉は限りなく淡泊なもので、感情の読み取りづらい平坦な声で、凜とした響きをしていた。彼女からしたら初対面の人間から急に明日もここに来るかと質問され、来ると答えたら勝手に約束を交わされた訳だ。恐怖や警戒心を感じてもおかしくはないだろう。なぜ来るように言われたかさえわからないだろうし、警戒や感情を抑えるくらい当たり前のことだと感じた。

「なんとなく、惹かれた。あなたに、声をかけなくちゃって思った。関わらなきゃって、思ったの、私」

 彼女は表情を動かさないまま「はあ」とため息か返事かわからない声を漏らした。当たり前の反応だよなと納得しつつ、息を整えた。

「すごい変……なことだと思う。普通じゃないでしょ? そうなんだよ、多分。私ずれてるんだよ」

 私の言葉を聞いて少女は呆れるみたいな顔をした。私も私に呆れていた。何言っているんだろうと。

「何いってるの、あなた」

 私のことをじっと見つめて、それから彼女は残った息を吐き出すように言葉を紡いだ。

 ほんとうに、へん。

 彼女の発した言葉は静かに染み込んでいく。そんな彼女の反応を見て少しだけ安心した。

 立ち上がる。より赤くなった日の明かりが私の横目を刺激した。目を細めて光の量を調節した後、彼女の方をじっと見つめる。

 彼女の日に照らされた赤い瞳は私のことを見つめ返していた。充血しているようにも見えるその瞳は痛々しくて彼女によく似合っていた。

 私が座るように促すと、彼女は言う通りに座った。そして手慣れた、洗練された動きでギターを出し、チューニングを始めた。金色のネジを回して弦の緩みを調節する。自分の気持ちを確認するみたいに、それは丁寧にゆっくり行われた。

「アコギって、いいよね」

 私が呟くと、彼女は返事をするみたいに一本弦を弾いた。びんと高い音が空気に溶ける。優しい音色だった。

 彼女は意味なく相づちをうつみたいにまたびん、びんと言葉の代わりに音で返事をした。

 彼女は息を吸うようにアルペジオを弾いて、自分の体が起きているか確認するみたいに、丁寧に、音の鳴りを確認した。

「アコギは優しいから」

 彼女はつぶやき、また爪弾く。手入れされた透き通った爪先から流れるように音が出る。右手が的確にフレットを押さえて、キュッキュと軋む音を立てる。ほのかに木の香りみたいな独特な匂いがした。それは彼女らしい、不思議な匂いだった。

 私は彼女の隣に座ってその音色に耳を傾ける。心にじんわりと響くその音色は温かいような気がした。彼女の言っていたアコギは優しい、という意味が少し分かる気がした。

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