第3話

 その日も、山を歩いていた。

 春らしい、爽やかな風が吹き、わずかに風に温度が残っている。優しい風だった。

 意識がはっきりとした中、私は歩いて山の頂上を目指していた。目的をもって歩いていたのはとても久しぶりに感じた。

 音が聞こえた。受動的な物だった。聞き覚えのある優しいアコースティックギターの音色だった。ぬるま湯に浸かっている時みたいな、そのまま溶けていきそうな危うい音色だった。

 山を登り切るとそこには母屋があって、少女が黄昏を背景に座ってギターを弾いていた。疲れたときに聞けばきっと泣いてしまう。そんな音楽が流れていて、その音楽の中で彼女は歌っていた。彼女は悲しみに包まれていた。

 綺麗な、透き通った声だった。鼻歌では無い、芯のある歌声だった。私はその声に惹かれるように言葉を口の中で転がした。発音せず、口の中で音を発生させた。その音は口の中で飽和されて、和音になって、霞んで、口の中で消えていった。少し、苦い味がした。毒みたいだ。わずかに手足が震えている。ああ、喉も締まって息がしづらい。

 私が後ろでぼんやり突っ立っていると彼女の音楽が止まり、振り向いた。

「来たのね」

 その声は先ほどの歌声とよく似た透き通った声だった。

 なにか言葉を続けようとして、彼女は私の背中にあるものに気がついたらしく目を大きくさせた。私の背中には家から持ってきたアコースティックギターがあった。

「持ってきた」

 簡潔にそれだけ言うと彼女は笑った。驚きをごまかそうとして出た笑いのように思えた。

「そんなの、見ればわかるわよ。ああ、おかしい。ふふ」

 彼女はひとしきり笑ったあと、目尻にたまった涙を拭った。なんでか知らないがどうやら先ほどの発言が彼女の琴線に触れたらしい。

 私は彼女のその笑いを無視して、彼女の隣に座る。肩からかけていたギターケースを隣に立てかけると、風が吹いて熱の籠もっていた部分を涼しくさせた。いや、さみしくなったのほうが的確だろうか。

 久々に感じる重たさはやけに私を安心させた。あの頃の無鉄砲さが戻ってきたみたいな、そんな感覚があった。安心できた。

 私はケースからギターを取り出して、膝の上に置く。乾燥剤独特のあの匂いが鼻の中に入ってくる。なにもかもが懐かしく思えた。

 ああ、なんでこの感覚を忘れていたんだろうか。どうして、こんなにも優しい世界があったのに私は離れたんだっけ。

 思い出そうとして、頭痛がした。少しずつ思考が暗くなっていく。ああ、そうだった。優しいって痛いんだ。砂は傷口に入って暴れるんだ。

 考えれば考えるほど、頭痛がひどくなる。本能が拒否しているようだった。

 黄昏によく似た感覚だった。

 忘れようとして、頭から追い出そうとして、よく頭を振る。振っても振っても追い出せず、思考が散らばる。

 どこで間違えた? どこでこうなった。ずっと前から間違えていたんだろう。例えば? どれが間違い? よくわからない。きっと、楽しめないのがだめなんだ。音楽を? それとも人生を? どうだろう。どう、なんだろう。

 びん、と弦が鳴る。彼女のものだった。

きれいだと思った。天使の泣き声のようだと思った。泣き声で無き声。天使の声はきっと聞こえないし、ギターの悲鳴は聞こえない。ギターは私達の完璧な代弁者にはなれやしない。そんな当たり前を思い出した。

 彼女の鳴らした弦が振動をやめ、静寂が訪れる。自分の心音だけが聞こえて、それが空気に溶けていく。やけに暖かく感じたのは気のせいだろうか。

 私は彼女の方を見る。いつも見ているはずの横顔が黄昏に透いていく光景のせいでやけに美しく思えた。彼女の内面を知っていないはずなのに手に取るように分かるような気がした。苦しみの暗がり、恐怖、未来、過去。彼女の全てが私に入ってくる。そんな万能感に似た何かがあった。なにも知らないという一種の万能感がそうしているのだろうと理解した。理解しながらも、その場にいることを選んだ。間違いであることが明確なのに。

「なにか弾ける?」

 彼女が聞いてきた。私はとある曲名を言ってみる。一九九五年に初めて発表された、イギリスで人気の洋楽。

「ああ、あれね。いい曲じゃないの」

 彼女はそう言ってその曲を弾き始めた。私は彼女のリズムに乗るようにギターを鳴らす。彼女は楽しそうに歌詞を口ずさむ。私は時々アレンジを入れながら彼女の音色を支える。私の音色は聞くに堪えない物だったけれど。

 久しぶりに人とつながれた気がした。頭の先から、つま先まで、全部、つながった気がした。

 一曲弾き終わると、彼女が止めていた呼吸を再開させるみたいに大きく息を吸った。

「久しぶりに弾いたわ、この曲」

 彼女のその一言がやけに明るい声だったから、私もそれにつられるように頷いた。現に、久しぶりに弾いたということもあったけれど。指が軽々と、スキップするみたいに弾けた事は確かだった。

「ねえ」

 彼女が問いかけてきた。

「いつからアコギ、弾いていたの?」

 彼女の問いかけに私は指折り数えながら考える。

「多分、小六からだから、五年前。でも高校に入ってからは弾いてない」

 私の声におどろいたように彼女は声を漏らして笑った。

「あら、すごいわね。二年もブランクあってもあそこまで弾けるなんてなかなかいないわよ」

「ボロボロだったけどね」

 私が自虐的に言うと「楽しんでいたなら満点よ」と、笑いながら言った。彼女の発言は的を射ていると思った。

「じゃあ日辻さんは満点だね」

 私がほとんど無意識のうちに言い放った言葉。脊髄反射のように発した言葉。それが、辺りの空気をすっと冷やした。何かをやらかした感覚がやってきたけれど、それも本当に一瞬のことで、瞬きをすればその感覚もどこかへ散っていって、冷やされた空気も霧散していって、先ほどの感覚が嘘みたいに思えた。

「……どうかしらね。楽しいって思えて弾けてることなんてないのかもしれないわ」

 彼女の誤魔化しの効いた発言が、自嘲的な発言が私の心臓をそっとなでた。

 彼女は、日辻さんは、きっと音楽が音合苦にでもなっているんじゃないかと、そんなしょうもないことを思った。それを今、彼女に聞けるほどの度胸はなかったけれど。もし、あったのなら、多分聞いていた。本当に。

「――楽しかったんだよ」

 念を押すように呟いた言葉は彼女に届いた様子は無く、ただ、私の心臓を痛めつけるだけになった。

「そうかしら」

 彼女は自虐的に笑って続けた。黄昏に似合った声だった。

「楽しさを目的にする人は、ずいぶん少ないかもしれないわよ」

 自分のことを言っているのだろうかと、思った。彼女はそのまま続ける。

「私みたいに、もうこれしか残っていない人もいるのよ」

 寂しげに呟いて、ピックをネックと弦の間に仕舞った。

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