そんなじゃないと知ってるから。実妹は再度兄を呼ぶ
あまりの剣幕にビクッと身体が震え、掴んでいた彼女の胸倉から手が離れそうになる。
「このままで良い訳がない? こんなこと望んでなかった? 嘘ばっかりっ! そんなこと思ってもない癖に、偉そうなこと言うなっ!」
「う、う、嘘だとォッ!?」
彼女の言葉を理解した時、俺は再度彼女の胸倉を掴み上げて、そのまま床に押し倒した。
ハルルの小さな身体が畳にぶつかって鈍い音が鳴り、畳特有のい草の香りが立ち上る。
「痛っ」
「言うに事を欠いて嘘だと、俺が嘘をついてるだとッ? なんで、んなこと言われなきゃならねえんだよッ!?」
彼女のうめき声なんか耳にも入らないままに、俺は実の妹を畳に押し付けていた。
「俺がどれだけツツミちゃんのことを後悔してると思ってんだッ! あんなに俺のこと好いてくれてて、尽くしてくれた彼女を傷つけちまって、本当に、本当に……俺がどれだけアヤヤのこと好きだったと思ってんだッ! 初めての恋が、どれだけ嬉しくて、どれだけ本気で。俺はずっと、ずっと……」
言いながら、歯を食いしばっている俺の頬には涙が伝っていた。彼女を押し付けている手は声と同じく、情けなく震えている。
悔しかった、許せなかった。
俺の後悔と初めての恋心さえ偽物だなんて、言われたくなかったから。それをしかと思い知らせてやろうと、息を吸い込んだ時。
「だったらさっさと動け、この馬鹿兄っ!」
「ぐえッ!?」
ハルルは俺の腹に蹴りを入れてきた。鳩尾に彼女の足の裏がめり込み、俺はうめき声と共に後退する。
けほっ、けほっ、と二度咳をした彼女は、尻もちをついた俺にキッとした視線を向けてきた。
「後悔してる? ずっと好きだった? だったらなんで今、何もしないで引きこもってんのよ。引きこもってたら事態は良くなるって言うの? 何もしないでいたら、全てが上手くいくって言うの? 言ってみろっ!」
「ゲホッ、ゲホッ。ハルル、そ、それは」
手痛い反撃は、腹だけではなく耳にも届いた。腹部の鈍い痛みなんか比じゃないくらいの、正論という名の衝撃が。
「今の馬鹿兄は、自分が悲劇のヒロインになりたくて引きこもってるだけにしか見えない。拒絶されて、誰かを傷つけちゃって。そんな自分はなんて可哀そうで酷い奴なんだって、思いたいだけにしか見えない。口先だけで調子の良いこと言って、本当はこんなことしたくないんですって体裁だけ取って……言い訳してるようにしか見えないっ!」
「ッ!?」
彼女の叫びが、乱れ撃たれた矢のように心に突き刺さってくる。
俺は何かを言おうとしたが、自分自身ですら自覚していなかった部分まで見透かされてしまい、返す言葉が見つからない。
「……馬鹿兄は、そんなんじゃなかったじゃん」
厳しい表情を俺に向けていたハルルの瞳から、一筋の涙が零れ落ちている。
「いつだって馬鹿で、変態で。なのにあたしのこと、諦めずにずっと探してくれて。見つけて、くれたじゃん」
彼女が言っているのは、迷子になった時のことか。
あの時、おつかいの帰りに道に迷い、夜になっても帰ってこなかったハルル。親父達に警察を呼ぶからもう帰れと言われても、俺はしつこく探し続けていた。
その結果、転んだ拍子に側溝にハマって動けなくなっていた彼女を見つけて、助け出すことに成功したのだ。
怖くて泣いていた彼女の頭を撫でてあやしたことは、今でも覚えている。
「給食のプリンだって。じゃんけんに負けてもしつこく迫って、勝ち取ってきたって自慢してたじゃん。馬鹿兄はいつだって、諦めが悪かったじゃん……こんな程度で折れなかったじゃんっ!」
土壌に広がった雨水の如く、茫然としていた俺の心に妹の言葉が染みこんでいく。
「さっさとツツミ先輩に謝ってきてよ。さっさとアヤヤさんにアタックしてきてよ。一回駄目でも、何回もしつこく行って。また駄目だったわって、笑ってよ。いつもの調子に、戻ってよ」
いつの間にか、ハルルは俺の目の前に立っていた。涙目のままに俺を見下ろし、しゃがみ込んでくる。
そのまま俯いて、頭をこつんと俺の胸にぶつけてきた。
「……お兄ちゃん」
最後の彼女の涙声は、今までで一番弱々しかった。
でもその一言は、何よりも雄弁だった。
俺は勘違いしていた。反抗期に入って、妹はずっと俺のことなんか嫌いになったんだと思っていた。鬱陶しい兄に対して馬鹿の枕詞をつけて、ずっとずっと、遠ざけられているんだって思ってた。
違った。ハルルはずっと、俺のことを見てくれていた。俺のことを心配してくれていた。
ただそれを、表立ってしなくなっただけだったんだ。
必要以上に喧嘩腰だったのも、俺の本心を引き摺り出す為。腐っていく俺を見ていられずに、ハッパをかけてくれていただけ。最初の心配そうな表情すらも、嘘なんかじゃなかった。
自分の心に嘘をついていたのは、俺の方だった。
「ごめん、ハルル」
ハルルは目の前で静かにしゃくりあげている。俺は彼女の頭に手を置いて、自分と同じ茶色い髪の毛を撫でた。
いつか迷子になった彼女を、あやしてあげた時のように。
「押し倒したりして、悪かった。痛かったよな、怪我してないか?」
ハルルは何も言わないままに首を横に振った。
俺は一つ息をつく。そのため息に安堵と共に、内側に巣食っていた情けなさを吐き出すように。
「良かった、ハルルが無事で」
「お兄、ちゃん?」
不思議そうに、ハルルが俺を見ている。
自分でもはっきりと分かるくらい、顔が緩んでいた。
「お前のお陰で、やっと分かった。そうだよな、こんなことしてても何にもならないし。本当にしたいことがあるなら、つべこべ言わずにやるべきだよな。こんなの、俺らしくないよな……よしッ!」
自分を奮い立たせる為にも、俺は声を張った。
実の妹にここまでされて立ち上がらないなんて、それこそ嘘だ。
「芝原ナルタカ、完全復活ッ! 待ってろよアヤヤにツツミちゃん。俺が今、地獄の底から帰ってきたァッ!」
俺はハルルのお兄ちゃんなんだ。見栄でも虚勢でもなんでも良い、顔を上げよう。
これ以上、彼女に情けない姿を見られたくないから。心配してくれた妹を、安心させたいから。
「なにそれ」
さっきまで外に響いていた筈の雨音が、今は聞こえない。
雲間から覗き始めた夕焼けが、窓から柔らかい光を差し入れてくる。その光を受けながら、ハルルはゆっくりと口角を上げていく。
「引きこもってただけの癖に。地獄なんて、大袈裟じゃない」
夕陽を受けてキラリと光る、彼女の目尻には雫が浮かんでいる。
でもその涙は、悲しみや苦しみから溢れ出てくるものじゃない。
何故なら今のハルルは、夕焼けもびっくりするくらいに綺麗に笑っていたから。
「ちゃんとアヤヤさんにアタックしてきてね。ちゃんとツツミ先輩に謝ってきてよね。蔑ろにしたらあの黒歴史、全部小説投稿サイトにアップしてやるんだから」
「マジ止めて、あれだけはどうかご勘弁を」
「あはははっ」
全部自分で蒔いた種とか、冗談であって欲しい。
「じゃ、早速行ってくる……ハルル」
「なに?」
早速立ち上がった俺は勢いよく出ていこうとして、一度足を止めた。
マイシスターの名前を呼ぶと、彼女はすぐに返事をしてくれる。
ただ何か気恥ずかしさみたいなものが胸の内に溢れてきて、俺は彼女の方を振り向けなかった。
「ありがと、な」
「うんっ」
背中に声をかけてくれる彼女の声は、とても弾んでいた。
「行ってらっしゃい、馬鹿兄っ!」
「おう。行ってくるぜ、マイシスターッ!」
最高の言葉を貰った俺は自分のスマホを引っ掴み、サンダルを履いて着の身着のまま家を飛び出した。
外の雨は、止んでいる。さっき窓から差していた夕陽が、広く青い空を雲ごとオレンジ色に染め上げていた。沈みゆく太陽はその姿を隠していこうとも、煌々と輝いている。
まだ終わりじゃない。例え沈んだとしても、必ずもう一度昇ってくると宣言しているかのように。
そうだ。沈んだのなら、這い上がれば良い。何度だって何度だって、しつこく昇り続けてやる。
大切な妹が、そう望んでくれているのだから。
心に火が宿ったことを感じた俺は一度立ち止まり、早速スマホを開いて彼女に電話をかける。チャットアプリの無料通話を使ってみたが、彼女は応答してくれなかった。
ならばと、俺はメッセージを送った。大切な話があるから、丘の上公園まで来て欲しいと。メッセージに既読は付かなかったが、送信エラーはない。
俺はそれだけを確認するとスマホをポケットにしまい、再度走り出した。目指すは、待ち合わせ場所に勝手に指定した丘の上公園。
あとは、俺が心を決めて。信じて待つだけだ。自分が本当はどうしたいのか。
走りながら、何度も何度も考え続けた。
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