分からないんだ自分の気持ち。だからこの日で終わりだよ


 話が終わり、静まり返った図書委員室内でアヤヤは泣いている。

 彼女の涙に呼応するかのように、いつの間にか外には雨が降っていた。


「分かり、ましたか。私は、誰かを好きに、なれないんです」


 ポロポロと涙を落としているアヤヤは、もう一度言った。あの日にランランランドで聞いた、あの言葉を。


「私は、あれだけ仲良くしていたのに、キョウタ君を受け入れられませんでした。恋心が、全然湧かなかったんです。挙げ句、あんな大勢の前で彼に恥をかかせて……おかしいですよね。普通に考えて、好きになって当たり前だった筈なのに」


 涙声になっているアヤヤに対して、俺は何も言えずにいる。

 彼女が抱えている後悔が、とても大きなものだったから。


 安易な言葉をかける気には、なれないくらいに。


「だから私は、キョウタ君を好きにならなくちゃいけないんです」


 涙も落ち着いてきたかと思った時に、アヤヤは顔を上げる。

 目元を真っ赤にした彼女は、痛々しかった。こんな彼女は見たことがない。


「逃げた私を、彼は追ってきてくれました。あんなことをしたのに、まだ私と仲良くしたいなんて殊勝なこと言ってくれました。これで頷かないなんて、嘘じゃないですか。拒絶するなんて、あり得ないじゃないですか。私は誰かを好きになれないのかもしれない……でもキョウタ君のことは、好きにならなくちゃいけないんですッ!」

「あ、アヤヤ」


 彼女の気持ちが分からないではない。酷い目に遭わせてしまって、でも自分をずっと慕ってくれる可愛い後輩に報いてあげたい。

 俺がツツミちゃんに抱いているような思いを、彼女はもっと強く感じているのだろう。


「で、でもさ。無理やり、誰かを好きになれるもんなの?」

「別にキョウタ君のことが嫌いな訳じゃないんです。なら、一緒にいる時間を増やしたら良い。恋心はゆっくりと育んでいくものって、小説にもあったじゃないですか。じゃあもう、あとは時間の問題です」


 恋愛小説を好んで読んでいた彼女が、実は恋愛そのものを知る為だったということをこの時に知った。

 誰かを好きになれないとずっと思っていたとしても、心の何処かでは誰かを好きになってみたかったんじゃないかって。


「だから。もう、止めます」


 続けて放たれたアヤヤの言葉に、俺は背中に冷たい汗をかいた。嫌な予感しかしない。


「ナルタカさんとのことも、もう終わりにします。私はキョウタ君と過ごして、ナルタカさんはツツミちゃんと過ごす。これで良いじゃないですか、万事解決です」

「ま、待て。待ってくれ」


 目を逸らしたアヤヤに対して、俺は一歩を踏み出す。


「アヤヤ、俺に彼女ができるのはもっと駄目だって」

「確かに、言いました。今でも嫌な気持ちはあるんですが……正直。私自身、何であんなことを言ったのか分かりません。考えても考えても、さっぱりなんです。分からないことなら、もう考えません」


 前に出た筈の俺の足は、震えている。


「そもそも、私と付き合うのは駄目ですって言いましたしね。ナルタカさんとは、これでお別れです。まあ、クラスや委員会はあるので、突き放したりはしませんけども。一緒に遊んだりするのは、もうなしですね」

「い、いやいや。まだだ、まだ終わらんよッ!」


 もう全て終わったと言いかねないアヤヤの様子に、俺は食って掛かる。

 ここで何も言わずにさようならしてしまえば、本当に全てが終わってしまうだろう。俺と彼女はただのクラスメイトに戻り、必要以外には喋らないような日々がやってくる。


 そんな未来が、ありありと見えた。


「べ、別に好きな奴がいようが、友達と遊ぶくらい訳ないだろ? なら、俺と距離を取る必要もないよな」

「わ、私はもう、キョウタ君のことを好きになるって言ってるじゃないですか。フッてるのが分からないんですか?」

「いいや、それくらいは分かる。でもこれで終わりなんて、誰も言ってないだろ?」


 喰らいつけ、諦めるな、ボールを拾うんだ。拾い続けていれば、負けはない。しつこさだけが俺の取柄、ここ一番で潔くてどうする。


「俺はアヤヤが好きだ」

「ッ!」


 何度でも、何度でも気持ちを伝えよう。身体をピクリと揺らした彼女に届く、その時まで。


「アヤヤが好きだ、大好きなんだ。簡単に諦められる程、ヤワなつもりはない」

「止めて、ください」

「好きだ、好きだ、ずっと好きだった。アヤヤと一緒に居られるのが、遊ぶのが、楽しくて仕方なかった」

「止めてください」

「一年かけて育んだこの想いに、嘘はない。アヤヤと一緒に居たくて、笑ってたくて。俺はずっと」

「止めてくださいって言ってるじゃないですかッ!」


 俺の思いの丈は、アヤヤの大声に遮られた。叫んだ彼女は再び目に涙を溜めながら、肩で息をしている。


「なんで、そんなこと言うんですか。なんで、あなたはそうなんですか。一年生の時はキョウタ君のことがあって、男の子と話すのが怖かったのに。あなたはグイグイ来てくれて。遠ざけてたのに、ずっと一緒に居てくれて。いつの間にか、話せるようになってて。昔みたいな学校生活が、送れて。私、本当に、嬉しくて……だから私は、あなたのことが」

「俺のこと、が?」


 俺が聞き返した時に、アヤヤはハッとしたかのように言葉を切った。

 今、彼女は何を言おうとしたのか。


「帰ってください」


 彼女が切った言葉の続きを紡ぐことはなく、クルリと俺に背を向けて冷たくそう言い放った。


「ナルタカさんといると、訳が分からなくなります。いつもいつも変なことばっかりして。これ以上、私に構ってこないでください。ツツミちゃんとでも仲良くしてればいいじゃないですか」

「いや。俺はやっぱりアヤヤのことがな」

「帰ってください」

「俺がこの程度で諦めるとでも思ってるのか? 絶対に諦めな」

「しつこいのも大概にしてくださいッ!」


 叫びながらも、もう一度、彼女はこちらを向いてくれた。顔を真っ赤にして、俺のことを睨みつけながら。


「帰ってくださいって言ってるじゃないですかッ! しつこく続けてれば、いつもみたいに私が折れるとでも思ってるんですか? 今日と言う今日は、もう頭に来ましたッ! 何度言われようと、私の気持ちは変わりません。さっさと出ていってくださいッ!」


 初めて見た、アヤヤの怒りの剣幕。腰が引ける思いをしながらも、俺の身体は本能レベルで食い下がろうとして、その場から動こうとしない。

 我ながら、呆れる程のしつこさだ。


「あ、アヤヤ。でも、俺」


 その時、窓ガラスが真っ白に光った。

 雷が近くに落ちたらしく、同時に空を切り裂くような強烈な音が鳴る。光と轟音は図書委員室内の様子と、響いた筈の乾いた音をかき消した。


 しかし、起きた現実だけはかき消せない。俺の左の頬にじんわりと広がっていく痛みは、本物だ。

 アヤヤにぶたれたんだと、少しの間は理解できなかった。


「……さようなら」


 光が収まり視界が戻ってきた頃。アヤヤは振り抜いた手を振って、駆け足で図書委員室を後にした。

 小走りで遠ざかっていく足音を耳に聞きながらも、俺は彼女を追えずにいる。足が床に釘付けにされてしまったかのように動こうとしない。


「そん、な」


 半開きになった口から漏れた言葉と共に、俺の頬を雫が伝っていく。人生で初めて受けた、明確な拒絶。

 それが初恋の女の子だったということもあり、俺にとって身体に亀裂が入ったかのような衝撃だった。


 足元の感覚がなくなっていき、自分が立っているのかどうかすら分からなくなっていく。外の雨音や遠くで落ちた雷の音すらも耳に入ってこない。室内には冷房も効いていないのに、芯から冷えるような心地があった。

 曇り空の奥で太陽が沈み、世界が一気に暗くなっていく中、俺はただただ立ち尽くしている。


 何かしなければいけない筈なのに、ここで諦める訳にはいかない筈なのに。身体が、言うことを聞いてくれない。

 心が、本気で、泣いている。


「アヤ、ヤ」


 濡れた瞳のままに呟いた、乾いた声。彼女の名前を呼んでも、応えてくれる人はいない。

 俺は陽が完全に暮れて真っ暗になるまで、図書委員室で立ちつくしていた。

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