25:孤児院での日々
物心ついた時にはすでに孤児院にた。
両親のことを知らず、生まれたのは本当にこの町なのかも知らなかった。
身よりを示す物を何一つ持っていなかった。
生まれて何ヶ月かという腹を空かせて泣きわめく子を、職員が孤児院の門の前で見つけ、そのままご主人に引き取られるまでの時間をそこで過ごした。
わたしは自分の生まれを知らない。本当は何歳なのかも知らない。ただ一つわかっていることはこの孤児院の出身だということだけ。
その孤児院は今暮らしている町からはそこそこ遠いところにある。
記憶が確かならば馬車で丸一日くらい、町からは遠く見える西の森をずっとずっと進んだ先にあるのではないかと思う。地図を見たところで街の名前どころか地名もあやふやなわたしの知識などたかが知れているので、本当にそう思うという程度。
わたしの育った孤児院はその森に埋もれるようにしてあった。
孤児院では全体で30人からの子どもたちが生活していた。男の子は少なく、女の子が多かった。
ほとんどが親を知らない捨て子で、生活苦からわざわざ預けられた子がわずかに親を知る程度だった。
わたしたちは5歳までを孤児院の中で一日過ごした。
孤児院には男女別に6人ずつで使う大部屋がいくつかと、全員が共同で使う食堂、台所、便所と浴室があるだけだった。
台所には窯と水場があるだけだったし、便所は甕にしてあとでまとめて捨てに行かなければならないものだった。浴室も水を汲んできてそれで体を拭くだけの何もない部屋でしかなかった。
もっとも当時は町の暮らしがとかそんなことはまったく知らなかったので、そういうものだと普通に過ごしていたのだけれど。
それから孤児院では基本的な教育を受けることができた。それはたぶん就職のため、社会に出て行くための訓練だったのだと思う。
簡単な読み書き計算、掃除、洗濯、裁縫、炊事、礼儀作法。仕事を探すときにまず必要になりそうな基礎的な技術を教えられた。
単純な内容の繰り返しだったし、教えるのは孤児院の偉い人たち、実践の場も孤児院の中でだった。わたしたちは孤児院の敷地から外へ出ることはなく、わたしたちの身長よりもずっと高い塀と柵と生け垣と、建物よりも背の高い木立に遮られた狭い世界に生きていた。知っているのは孤児院と、その職員と、孤児仲間たちだけで、将来のための教育を受けながらも将来のことなど思うこともほとんど無かった。
教育と言いながらも掃除は施設の清掃だったし、洗濯や裁縫は自分たちの着るものや寝具がその対象だった。炊事はもちろん自分たちの食べるものだ。将来の就職のためでもあったのだろうけれど、同時に日々の生活のためでもあった。
それでも振り返れば、学ぶことができていた期間は思いのほか短かったと思える。
ご主人に引き取られるまで、孤児院だけがわたしたちにとっての世界のすべてだった。
町からはずれた森の中に人目をはばかるように建てられた施設だったので、森におおわれていて遠目にも街並みを見ることはできず、森はどこまでも続く世界の果てであったし、壁や柵に囲われた施設で、外出も敷地内しか許可されていなかったので、敷地から出て森の向こうへなど想像もできず、そこで生きるわたしたちの世界は本当に狭かった。
そもそも町で生きることのできない子供たちが預けられ、生活する場所なのだ。
うかつに外へ出ても危険なだけだし、少ない大人で大勢の子供の面倒を見るという環境なのだから、行動範囲を制限する必要があるというのも理解できる。
それに何十人もの身寄りのない子供を育てるための施設だ。
今考えると恐ろしいほど費用がかかっていたと思う。食事、衣服、寝具。基本的なことを考えただけでも大変なことだ。
管理者、教育者、指導者を雇うための費用だってかかる。
その施設を維持するのだ。切り詰めるために真っ先にしたことは、生活する子供たちを一律に管理することだったのだろう。
孤児院には管理するための人が数人いた。
教育や訓練のための先生が数人いた。
彼らをまとめるための偉いであろう人がほかに数人いた。
生まれたときからそこにいる大人たちは、厳しく、恐ろしかった。
わたしたちが頼れたのは孤児院の少し年長の、孤児院の手伝いをしたりわたしたちの指導もしたりといった役割の人たちだった。
学びながら孤児院の施設の管理に努めることは、ここを維持するための施策の一つだったのだと思う。
管理する大人を減らし、変わりに子供が子供を管理する体制ができていた。
わたしたちは孤児院で下の子たちの面倒を見ることで時間を奪われていった。
それでもわたしは物心ついたときにはすでに孤児院の中だったので、世界というのはそういうものだと簡単に受け入れることができていた。
ほかの子供たちも同じだと思う。
そういうものだと受け入れられているのならば、日常生活の中で外を意識することなどまず無いのだ。
ここでは定期的に来客と子供たちとの面会の時間が設けられ、すぐに引き取られる子や、いずれ引き取られる子が選別された。
早いうちに引き取り先の決まる子は幼いころから可愛らしい子ばかりで、そこで選ばれなかった子供たちは学びながら年間にわずかな回数行われる面会で何とか選んでもらえるようにと自分を磨いた。
選ばれるためには、少なくともきれいでいることが必要だった。
選ばれずに残されることを繰り返すわたしたちにとって、少しでも可能性を上げるために汚れ物を片付けたり、服を繕ったりといった作業は大切なことだった。
トイレをきれいにしておかなければ臭いが移る。
廊下や部屋をきれいにしておかなければ衣服や手足が汚れる。
ぱっと見たときに服がぼろぼろだったり汚かったりすれば、それだけで評価は落ちる。
きれいにし続けることは、わたしたちにとって必要なことだった。
これが必要な子はそれほどいないのではと思いながら受けた身だしなみを整えるための課程、楽器演奏や踊りの練習、たまには絵を描くこともあった。
先生が用意した服を着せたり着せられたりすることに何の意味があったのか。
良い音が出るとは言いがたい、古い楽器を音を奏でてみることに何の意味があったのか。
野菜を見ながら木炭で線を引いたり、使いかけの絵の具を絞って色を付けたりすることに何の意味があったのか。
たぶん才能を見いだしたり才能を磨いたりと行った意味はあったのだろう。
でもわたしにとっては意味がなかった。
男の子の課程には木や石を切ったり削ったり、レンガを積んだりといったこともあると聞いたけれど、実際にどんなことをしていたのかは見たことが無いので知らない。
もしかしたらそちらの方がわたしには必要だったのかもと思ったことはあるのだが、女の子の課程にはなかったのだからしかたがない。
そうして何とか活路を見出すための日々を過ごしたけれど、見た目を気にしたり芸術方面に才能を求めたりすることは、10歳辺りが限界だった。
試してみたけれどだめだったということを何度も繰り返したところで、そういった授業を受けることはなくなっていった。
きれいになったり才能が認めれたような子は早々に引き取り先が見つかり、気が付いた時には孤児院からは姿を消していった。
あの授業が必要だった子もいたのだということに驚いたものだ。
選ばれなかったわたしたちは、一つ一つあきらめていった。
わたしたちは何者にも選ばれないまま、自分たちの、あるいは幼い子供たちの分の、あらゆることに追われるだけの生活に縛られていった。
世界が狭いことの弊害は主に人間関係に現れた。
男の子と女の子の生活の場ははっきりと分けられていて、一部の教育課程で一緒になる程度だった。
男の子の職業訓練の課程を女の子が受けるようなことは無かったので、年数が進むにつれてほとんど会うこともなくなった。
異性に出会うこともなく、多様な大人と出会うこともなく、ひたすら選別を繰り返すことで残された女の子たちは、右を見ても左を見ても似たような程度の子ばかりになった。
そんな子だけの生活が繰り返される中で人間関係は煮詰まり、ひどく凝り固まったものになっていった。
みんな疲れていった。
残されたわたしたちが行き着く先の想像ができなかった。
同じような程度、でも自分も選ばれた一人になりたい。
周りを見渡せば似たような人間ばかりになる環境で、でも自分だけはという思いも抱えて、でも今いるのはわたしたちだけで、一緒に暮らしていくことは決まっているようなもので。誰とも仲良くなりすぎないように、でも敵意を持たれないように、当たり障りのない関係のままでいるように気を使い続ける生活は、楽しいものではなかった。
わたしはあきらめていった。
孤児院での生活は15歳までだと聞いていた。
15歳を最後に仕事の斡旋が強制的に行われるのだと聞いていた。
息詰まるような生活を繰り返す中で出られるまであとどれくらいと数えるようになったとしても、それはおかしなものではないだろう。
そうしていろいろなことをあきらめ、ただ終わる日が来ることを待ち始めた13歳のある日、わたしはご主人に引き取られた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます