13:猫の話②

猫によって散らかされた紙のほとんどは依頼の手紙だった。

あとは売り上げを記録した書類やメモ類、それから新聞に挟まっていた広告といったところ。

別に広告が行方不明になっても困りはしなかったのだけれど、依頼の手紙が一通、どうしても見当たらなかった。

床の上を見渡してもすでに何もない。

棚の下かと思ってのぞいてみても隙間が狭くて暗くて何も見えない。

違う棚かとのぞき込む。

よく見えない。手当たり次第に掻き出してみるしかないか。

「これを使ってみないかね」

「なんでしょう?」

「ちょっと面白い魔法があってね。こういう時こそ使いどころだと思うのだよ」

どこからともなく取り出した紙をテーブルに広げ、手のひらでなでると薄紫色の魔法陣が浮かび上がる。

その中央に水の入った小瓶を置き、紙の縁を指先でトンと叩くと魔法陣がそのまま浮かび上がる。

魔法陣の中を小瓶をくぐり、口のところまで浮かび上がってからすぼまって消えた。

水は魔法陣と同じ、薄紫色に変わっていた。

「何の魔法ですか?」

「まずはね、これを目を覆うように掛けてみたまえ」

手渡されたのはガラス板を枠にはめたもの?といえば良いのだろうか、それに紐をつけてある。

言われるままに頭に上からすぽっという感じではめてみると、ちょうど枠が目の周りを覆うようになっていてガラス越しにだけまえが見えるように。紐も伸び縮みする素材なのか頭の大きさでぴったり止まる。

「隙間ができたりはしていないね?よしよし計画通り。さて、これはね、こうやって使うのだよ」

ご主人様は何やら小さなものをいくつか手に持って部屋の隅に行った。そこには生花を飾った花瓶があるだけだ。そこで花に対して何かをした。

そしてわたしの視界は暗転した。


──そこは緩やかな曲線を描く真っ赤な丘陵だった。

絹糸で折られた布地のようになめらかで、光を反射して輝いている。

右にも左にも赤い緩やかな丘陵がいくつも連なっている。

稜線に沿って進んでいくと、丘陵の曲線は緩やかな昇りから次第に降りへと姿を変えていく。

降りへ入ると視線の先には奈落。

色合いは赤からピンクを経て、次第に白へとかわり、すぼまりながら急な傾斜へと姿を変えて落ちていく。

景色がゆっくりと前へ進む。奈落の先が徐々に見えてくるようになり、暗がりの先の方に黄色い粉を吹いたような塊が姿を見せる。

何となく理解できてきた。これは花だ。

花びらの上から中をのぞき込んでいるのだ。

どうやってなのかはさっぱりわからないけれど、花びらの上を進み、中をのぞき込んだところなのだ。


「なかなか面白いものだろう?」

パンッという手を叩く音がした瞬間、視界は花から居間の中へと戻っていた。

「これはね、別の物の視界を借りるという魔法でね。今のはアリの視界だね」

なんとアリの視界を乗っ取る魔法なのだという。

先ほど花のところまで持って行ったのはこんな時のためにとわざわざ用意していたアリと魔法を溶け込ませた水。その水を一滴アリにかけた瞬間から、わたしの視界はアリと同じ物になっていたのだという。驚いた。

アリの眼は複数の小さい眼が集まっているものなので、人と同じに見えているのか、色も形もこんなに鮮明かどうかはわからないのだそうだ。

アリの目でものを見ているのではなく、アリの視界に術者の視界を上乗せしているだけなのだという。

何を言っているのかよくわからないけれど、とにかくすごい魔法だと思う。

しかし事前に一言は欲しい。

突然視界が暗転して、直後に真っ赤な何かの上というのは心臓に悪い。

しかもわたしの体はいつの間にか椅子の上へ移されていたようで、気が付いた瞬間に頭が背もたれにガクンと落ちたのだ。

事前に一言あれば、せめて心構えくらいはできるのに。背もたれは硬くて痛いのだ。

「これで視点を床に持って行ったらどうかね」

どこから魔術具がとかどこからアリがとかは言っても仕方がないのだろうか。

なぜ準備万端なのだ。

しかも当然のようにわたしがやることになっているし。

まあ一度花の上で試してしまったのだ。

今更だ。やってみましょう。


わたしはソファの上で待機。ご主人様は棚が並ぶ近くの床にアリを降ろし、逃がさずに素早く水を一滴。

これでわたしの視界が一瞬で床の上に移動する。

先ほどはよくわからずにいたけれど、いざわかってみると見えているものすべてが果てしなく大きい。これは怖い。

アリが頭をぐりんぐりんと動かすたびに視界が揺れる。

アリが移動を開始する。

毛足が長い絨毯の上では歩きにくいのか、移動にあわせて視界が上下に激しく動く。めまいがしているようで気持ちが悪い。せめてまっすぐ歩いて欲しい。

部屋の隅を目指しているのか、棚の方へよっていく。

視界の隅の方にご主人様が見えている。何かで誘導しているのか。

徐々に迫る棚下の暗がりに丸まった埃が見えて、ああ棚下ももっと気をつけて掃除しなければと考える。

こんなことで気がつかされるなんて使用人としては失格だろう。上司がいればきつく叱られる案件ではなかろうか。

とりあえずこの棚の下に手紙はない。

違う棚の方を見て欲しいなと思っていると、アリは棚下へは入らずに棚に沿って移動していく。このまままっすぐ進んでくれたら良い。

しかしアリの足は遅い。

いや遅くはないが、大きさの問題でなかなか次の棚にたどり着けない。じりじりと待つ時間が続く。

ようやく次の棚の下が見えてくる。ようやくだ、と目をこらすと、そこに埃以外のものを発見。これか――


突然ドンという激しい衝撃を感じ、視界が暗転する。

一瞬のことだった。視界がそのまま上から押しつぶされたような。

ふっと視界がいつもの高さに戻る。

衝撃を受けたように体が揺れて腰が落ち、椅子の上をずりずりと落ちて行ってしまう。いったい何が起こったのか。

いつの間にか床の上に移動していた猫と目が合う。

「え、え、何ですか」

「すまん。そこの猫がアリを叩いたんだ。止める間もないな」

「びっくりした。びっくりしました」

心臓がばくばくいう。

自分がつぶされる瞬間だったのか。あんなもの体験するべきものではない。恐ろしい。

いくらわたしの体に直接起こったことではないといっても、あまりにも心臓に悪い。こんなことを繰り返していては身がもたない。

猫は床に右手をおいてこちらを見ている。

ふんっという鼻息が聞こえそうなほど堂々とした顔つきだ。褒めて欲しいのか。叩きつぶされたわたしとしては、さすがにそれは勘弁してほしいのだが。

「これを飲んで、落ち着きなさい」

目の前に水が入ったコップが差し出される。

それを受け取り、口を付ける。

「そこ、そこの棚の下です」

水を飲みながら指さす。たぶんあれがそうだ。

ご主人様は猫の体を押すようにして避けさせ、棚の下に棒を差し込んで掻き出すと、埃と一緒に手紙が出てきた。

良かった、わたしの犠牲は無駄ではなかったのだ。

思い起こされる恐怖を振り払うように深く呼吸し、ため息をついた。

手紙の内容は後々。今は落ち着くのに精一杯でそれどころではないのです。

猫ちゃんよ、そんな満足そうな自慢げな顔をしていないで。

そもそも勝手にうちに飛び込んできたあなたをどうしましょうという話なはずなのに。

ほんとどうましょうね。

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