02:お客は来ない
朝食が済んだら食器を片付け、新聞を眺めているご主人様はそのままに、一階へ降りて表の玄関の鍵を開ける。
開店の準備をするのだ。
玄関前に落ち葉やごみがあればそれを片付け、表に面した窓のカーテンを開ける
これでいつ来客があっても恥ずかしいことはない。
あとは店をきれいに保つために掃除をしたり、その日取りに来る予定の荷物や配達に出す予定の荷物を用意したりしてすごすことになる。
この店には店名と言えるほどのものはない。玄関扉の上に「医薬品」と書かれた小さな看板がかかっていることが、ここが何の店なのかを指し示す唯一のものだ
ご主人様はここで、調剤薬局というものを営んでいる。
熱や咳、胃痛、腰などの節々が痛む、眠れない、食欲がない、肌が荒れる。症状を聞いて、それぞれに対応した薬を渡す。
薬には症状、処方、料金が書いた紙が貼ってあるのでわたしでも店番ができる。
薬が無ければ、用意するのでまた後日来てほしいと伝えれば良いだけなので簡単だ。専門知識のないわたしでも、安心して店番ができる。
来店するお客は一日に多くても数人。恐ろしいことに一人も来ないこともある。
店頭の販売だけでは、とても繁盛しているとは言えないと思う。
定期的に訪れては大量に購入してくれるお客が数人いることや、こちらも定期的に大きな荷物を配達する先があるおかげで成り立っているのだ。
この町にある大きな病院の名前くらいしかわからないが、おそらくそういった先が取り引き先なのだろう。
実際に店頭販売よりもこの大口販売の売り上げが圧倒的だ。帳簿に付ける時の金額の桁が違う。さすが大口、ありがたいことだ。
残念ながら配達分はちょっとわからない。銀行へ振り込みだと聞いていて、この口座の管理だけはご主人様がしている。まあ大口分がこれなのだから、たぶんすごいのだろうという想像だ。
驚いたことにわたしは毎月少額ながらお給金がいただけている。
ご主人様と同じこの建物内に自分の部屋があり、生活費はすべてご主人様が払っているのだから、わたしは別にお給金などなくてもかまわなかった。
それを「自分の服や身の回りのものを買うのに、私では好みがわからないから」と渡してくれている。
そういわれてもわたしの使い道などたかが知れている。
隣りの喫茶店でお茶を飲む。貸本屋で本を借りる。その程度しか思い浮かばない。食べるものは家の財布から出すし、着るものといってもなあと悩むだけ。
使い道もなくただ貯まっていくお金だけれども、せっかくなのでありがたく頂戴して自室の貯金箱の中へせっせと貯めこんでいる。
ここへ来てからの思い出が積み重なっていくようで、うれしいのだ。
この家は町中の大きな公園や大きな通りにもほど近いところにある。
連続して建てられている住宅のうちの一戸で、この通り沿いは建物の一階がお店になっているところが多くなっている。
中心地ではない脇の通りではあるけれど、住宅街と中心を結ぶ商店街のような通りということで、人通りももちろん多くなる。
一等地というわけではないけれど、それなりに良い土地だと思う。
建物は地上3階、地下1階からなる。
地下は石炭や雑多なものを置く倉庫。湯沸かし器もここ。昼でも夜でも季節も問わず自由にお湯が使えるすぐれものだ。朝晩の点検は欠かせない。
一階は店舗部分で、奥の方に浴室や便所、洗濯室などの水回りがある。裏手には通用口もあって、ゴミ出しなんかはこちらを使う。
二階は居間、食堂、台所に家事室。
三階に寝室と書斎と衣裳部屋、それから小さいながらわたしの部屋も。
自分だけで使って良い部屋というのはこれが初めてだ。孤児院では生活はすべて複数人で使う大部屋だった。
自分だけのベッド、自分だけの箪笥、自分だけの机に椅子。感動だ。
店内には乾燥した植物や何かの実のようなもの、小動物の骨のように見えるもの、不思議な色をした石などが一つ一つ、細かく区分けされた棚の中に納まっている。
窓以外の三方の壁一面がこの棚。
いくつかある机の上にも、これまた細かく区分けされた箱が大量に並び、やっぱり植物や実や骨や石や様々なものが入れられている。
天井から吊り下げられた植物もいくつかあって、店内は一見してほこりっぽい、雑然とした印象を受ける。
これは商品を陳列することが目的ではなく、倉庫として利用した結果だという。
お客と向き合うことになるカウンターの向こう側には、こちらは完成品の薬が同じように細かく分けられた棚に収められて並んでいる。
調剤のためのテーブルや、その手順を書いた書類を納めた文箱、会計を済ませられるように金庫もここだ。
文箱や金庫の鍵はすべて二階に置いてあって、その管理もわたしがやっている。
普通、お金の管理は使用人に丸投げしないと思うのだけれど、ご主人様はわたしにすべて預けている。
お金も鍵も。
それはご主人様が持っているべきではと言ってみたこともあるけれど、一番長くここにいることになるのはわたしなのだから、わたしが管理するべきといって譲ってはくれなかった。
金庫には結構な金額があるのだけれど、わたしが持ち逃げしたらどうするのだ。
「信頼しているよ」と言われてしまうとどうしようもないのだけれど、ご主人様に良いように操られているなという気もする。
もっとも逃げ出したところで行くところはないのだ。持って逃げて、どこへ行くというのだ。わたしの知っている世界は本当に狭いのだ。
まあ信頼には応えなければならないので頑張ろう。
せめて店内はきれいに保とうと丁寧にほこりをはらったり、カウンターを磨いたり、薬の在庫を確認したりする。
お客が来れば真剣に応対する。しかし肝心のお客が来る気配は微塵もない。
今日配達に出す荷物も小さなものが二つだけで、昼前頃に来る配達員さんに渡せば終了となる。
思いの外やることがない。
窓の向こう、通りを行きかう人はそれなりにいる。
住宅地から町の中心へと続いていく道なのだからいるに決まっている。
窓越しにこちらをちらりと見る人もそれなりにいる。
しかしそういう人たちがそそられるような商品はこの店にはないのだ。美味しいお菓子も色とりどりの布地も、何もない。
窓越しに雑然とした、全体に茶色い店内が見えれば、そのまま通り過ぎていくのは当然のことだ。
だいたい薬屋に用のある人など病人、けが人くらいだ。当人か、あるいは関係者か。用があって来る人以外が欲する物など、薬屋にはないのだ。
美容や健康に使える薬でもあれば良いのだけれど、そういうものはまた扱いが違っていて、ほかの店の商売をじゃますることになるのだという。
薬屋の店番にできることは以外と少ない。
わたしはハタキを肩に置き、カウンターに腰を当てて体重をかけ、そのままぼーっと通りを眺めることくらいしかできないのだ。
「こんなんでいいのかな」
思わずため息と一緒に言葉になって出てしまった。
いつものことだけれど、いったいわたしは何のためにこの店にいるのだろうかと、ちらりと思う。
ちらりと思うし、たまにはこうして言葉にもしてしまう。
家事全般に加えて店の業務もすべて扱う使用人としてここに来たはずだったのに。
わたしのやることは、思いのほか少ない。
気合いを入れてきたはずなのに、肩すかしも良いところだ。
もう少し手応えがあっても良いと思うのだ。
ご主人様に言わせれば「雑事は全部やってもらえて、私はとてもうれしい」ということになるのだけれど、その雑事が大したことないのだよ。
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