03:ご主人様は引きこもる
肝心のご主人様はいつまでたっても店に出てこない。
店内には急な来店にも対応できるように薬は用意してあるし、対応できないような薬は後日ということで大丈夫だ。
配達の包みも準備済みだし、確かにご主人様が店にいる必要はない。
確かにないのだけれど、一日出てこないのが普通というのはどうなのだろう。
わたしが一日店番をして、売り上げや問い合わせなどの様子を昼や夜のご主人様と一緒の時にでも報告する。
在庫が少なくなった薬があればそれも報告。こちらはご主人様が気が向いたときに作って追加する形になる。
店頭で売る薬の大半は傷薬、風邪薬、胃腸薬といったところだ。
傷薬はまあ傷薬なので、貼り薬に塗り薬、痛み止めとまんべんなく売れる。土木関係や調理関係なんかのケガをしやすいお仕事からどこぞの屋敷の使用人まで、必要な人の幅は広い。
風邪薬は用途に合わせて、ひき始めに飲むもの、熱が高くなってきたときに飲むもの、鼻水が止まらなくなった時に飲むものと、いくつもある。
胃腸薬もすごい。お酒を飲み過ぎた時、ご飯を食べ過ぎた時、おなかを壊した時、便通がない時などなど。こちらは仕事中の人が必死になっていたり、ご婦人方がこっそりとだったり、買われ方が面白い。
もちろん商売ですから、販売上の秘密は守りますよ。ええ。
この手のよく売れる薬というものは在庫も大量に用意してあるし、減ってきたときの追加も早い。この辺りを用意しておけば店としてやっていけるという線らしい。
口の中のきれいにする薬とか、目がなんとなく変なときに使う薬とか、肌が乾燥しているときに使う薬とか、眠れないときに飲む薬とか、それこそいろいろなものがある。
薬の一覧表を眺めているのも面白い。効果効能、使われている材料。勉強になる。
その薬の一覧表には書いてあるのに在庫が無いという薬もいくつかある。鎮静剤は効能に意識を麻痺させるとか書いてあって怖い。育毛剤は効果は神のみぞ知るとか書かれていて別の意味で恐ろしい。
売りたい薬、売る気のない薬の線引きがはっきりしていて、売る気のない薬は即日処方ができない薬という扱いで良いらしい。
高い値段を付けて、注文を受ける。どうしても欲しいといわれても無いものは仕方がないので「あとで」の一言で済ませる。
ご主人様、やる気ない。
わたしがまだこの店にいなかったころは、それでも頑張って店頭に一日いたこともあったらしい。
いたこともあったということは、いなかったこともあったということで、この店は訪ねてくるまで開いているかどうかわからない店だったのではないかと思う。
薬が欲しい人はたいてい緊急なのではないのだろうか。
それが来ても開いていない店では「あそこはだめだ」と思われるのではないだろうか。
一般小売店として、それはさすがによろしくない。
隣近所の店は普通に毎日、朝から開いている。
喫茶店は朝から軽食とお茶が楽しめるし、貸本屋は通勤通学の時間にあわせて店先に売れ筋商品を出すのだという。
商売なのだ。もちろんそれくらいはするだろう。
薬屋が売れ筋商品を並べるのもおかしなものだとは思うので、せめてわたしは毎日玄関を開けて、店先をきれいに保つようにしようと思う。
開いています。やっていますよ、お買い物をどうぞ。
わたしのやる気とは裏腹に、この日の午前中の来客はなかった。
お昼前に配達員さんに配達の荷物を引き渡したところで、業務はいったん終わりにする。
玄関の鍵を掛け、カーテンを閉めたら二階に上がる。
ご主人様のお昼のしたくをしなければならない。
二階への上り口で靴からスリッパに履き替えて階段を上る。
この家は外履きの靴のままが許されているのは一階と地下だけだ。
ニ階から上へは昇り口で靴からスリッパに履き替えるように言われている。外の汚れを生活空間へは持ち込みたくないのだそうだ。
二階にご主人様の姿が見当たらない。
朝飲んでいたお茶のポットはそのままだが、カップが無い。
新聞は、椅子の上にあった。
居間にも食堂にも台所にも姿が見えないので、おそらく三階の寝室にでも転がっているのだろうと予想する。いつものことだ。
まずはポットを片付け、食堂のテーブルを整える。
台所でパンを切り、まだ新鮮な野菜を皿に盛り付ける。
飲み物はコーヒーが良いだろうと豆を挽き、サイフォンにセットする。お湯がぽこぽこと沸き始めたところで、ご主人様を呼ぶために三階へ向かう。
ご主人様の部屋の扉をノックして、返事を待たずに扉を開ける。
最初のころは頑張って返事を待ってみたりもしたのだけれど、その返事は無いのが普通、あっても生返事という状態だった。
ご主人様からも「返事をするのも面倒くさい。勝手に入られて困るようなことは何もないから、用があるのならさっさと入って済ませなさい」と言われたことだし、そうすることにしている。
扉を開けると目の前に素足が二本、転がっていた。
スリッパは足の先の方に散らかり、足の指をぎゅっぎゅっとにぎったり開いたりを繰り返している。
靴下はどこへ。
普通は妙齢の女性というものは素足をさらすものではないのでは。
朝の着替えの時には用意しておいたし、履いたように記憶している。どこへ──と見渡すとベッドの上に発見した。
ご主人様は寝室の床にあおむけに寝転がり、本を開いたまま胸の上に置き、その上で手の指を組んでいる。
目を閉じて、足の指をぎゅっぎゅっと動かしている。
「何度でも言いますけれど、床の上はやめてください。横になるのならベッドの上にしてくださいな」
「いや、ベッドは柔らかすぎてね。この硬さがちょうど良いのだよ」
目を閉じたままで言い返される。
ご主人様は床に転がるのがお好きなようなのだ。
でも扉を開けたら足二本というのは驚くからやめてほしい。
以前、階段を上がっていたら三階へ階段を上ったところに横になられていて、開いた口が塞がらないくらいに驚いたことがある。ああいうのは本当にやめてほしい。
「ほら、じゃまですよ」
ベッド脇の小さな丸テーブルの上にカップが置かれているのが見えたので、ご主人様の足をまたいで部屋に入る。カップは空だ。
背後でパサッという音がして振り返ると、ご主人様が寝転がったまま横向きに体勢を変え、こちらを見ている。体勢が変わったあおりを受けて、本が閉じて床に落ちていた。
「やっぱり床に横になるのはいけないことをしているように思えます」
「誰も見ていないよ。この位置は私のおすすめだよ」
「やっぱりあまりきれいではない気がしませんか」
「平気だよ。おまえが毎日きれいにしてくれているのだろう」
ああ言えば、こう言う。ため息しか出ない。
自分の家でわがまま放題なのは、やはり家主の特権なのだろう。
こうなることがわかっているから、毎日きれいにしているのだ。
ご主人様にわたしの自尊心が少しくすぐられたことで、ほおが少し熱くなっているのを自覚しながら、カップを持ってもう一度ご主人様の足をまたぎ、部屋を出る。
「もうお昼ですよ。そろそろ起きてくださいませ」
温かいコーヒーを新しいカップに注ぎ、テーブルを整えているとご主人様が階段を降りてくる音が聞こえてきた。
いくら朝から部屋でごろごろ寝転んでいたとしても、おなかはすくだろう。温かい食事で気持ちを切り替えて、午後からはお仕事に励んでほしいものだ。
自分の分のコーヒーを用意して食堂へ行くと、ご主人様がパンとサラダを盛った皿とカップを持って、食堂を出ようとしていた。
「え、どうされました」
「いや、おまえ、今いいところなのだよ」
「何がですか」
「あ-、さっき読んでいたのがだね、今流行りの小説でね、今、いいところなのだよ」
食堂から出ながら、半身で回答を返す。
「本をね、読むのだよ」
食堂を出て、階段に向かいながら返してくる。
いや、その食事をどうしようというのか。
まさか部屋まで持って行って、床に並べて、そこへ寝転がって本を読みながら食べようというのか。
ああーという呆れた顔をしているのが自分でもわかる。
このやりとりも何度目か。
ご主人様はこうなのだ。本を読んでいるか、寝ているかを自室でしている。店に出てくることはまずない。
今日はもう店に出てくることはないだろう。
せめてわたしはしっかり店番をしようと決意を新たに、昼食をしっかりと食べる。
食べて力に変えたら食器を片付けて、店に出て、玄関の鍵を開け、窓のカーテンを開け、来客に備えるのだ。
わたしがここへ来てから、ご主人様が店に出ていたことはほとんどない。
最初のころはそれでも、店の仕組みを教えてくれたり、大口のお客さんに紹介してくれたりといったこともあったのだけれど、その必要がなくなった今ではまったくといっていいほど、ご主人様が店に出てくることはなくなった。
まさかこのためにわたしを引き取ったのではという疑問がどうしても浮かぶ。
わたしに仕事をさせておいて、自分は引きこもろうというのではないか。引きこもりたいがために、わたしを引き取ったのではないかという疑問だ。
ご主人様は自分のことは自分でできる人だ。
実際に最初の頃、わたしに一通りのことをやってみせてくれたのだ。
それが今では何もしない。掃除も、洗濯も、食事の支度も、店番も全部わたしがやっている。
いや、いいのだよ。
店番をしていて、暇でぐるぐる考えたりするだけで、別に今の状況に不満はない。
食事やお茶の好みもわかってきたから注文をつけられることもなくなったし、毎日きれいにしていることをちゃんとわかってくれているし。
店番も暇なら本を読んでいてもお昼寝をしていても良いと言われるくらいに余裕があるし、お給金ももらえる。
貯めたお金で自分の本や服を買ったりお菓子を買ったりなんていう、それまででは考えられないような贅沢ができる。
特に不満はないのよ。ご主人様、良い人だし。変だけど、美人さんだし。
でもね、やっぱり少し考えてしまう。
わたしが来てから見ているご主人様の日常が、自室にひきこもってばかりというのは、どうなのだろうかと。
たまには店に出てきて、わたしとお話しましょうよという気持ちになったとしてもしかたのないことでしょう?
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