町の薬屋さんに就職したわたしの少し不思議な日常
或日
01:おはようからおやすみまで
カーテンを開けると赤茶色をした石や土や何かそんなもので作られた3階建ての建物が連なる通りがまず目に入る。
視線をあげると遠く南の空の方に、神様が作られたものだという伝説のある空船と呼ばれている遺跡と、そのすぐ下辺りをぐるぐると泳ぐように飛ぶ翼竜の姿。
右手には建物越しにすら偉容を誇る山脈の峰峰が遠くに見え、左手には通りの先、すでに賑わいを見せている市場が見通せる。
窓の外、日差しの中を淡く光る指先程度の大きさの光虫が漂う。
長く続いた戦争も終わり、戦場になりはしなかったけれどそれなりに前線にも近かったという緊張から解き放たれ、行き交う人たちの顔は明るく、市場の賑わいが窓越しでも聞こえてきそう。
とある国のとある町の一角。戦争は遠ざかったらしいけれど、遠くに竜の姿を見ておおと思うような危険はまだあって、そんな時代の一角で、わたしは薬屋に住み込みの使用人として雇われて、今日もいつもの仕事に立ち向かっていく。
「おはようございます」
三階へ上がりご主人様の部屋に入り、カーテンを開ける。
曇天の朝方、それなりに柔らかい光が差し込む。まぶしくはない、程よい明るさもまた心地よい。
時計の針は8時をすでに過ぎている。
一般的な社会人、それもこれから店を開けようという自営業者としてはいかがなものかという時間。
もっとも、利益を上げる気が感じられない、気が向いたら開け、気が向いたら閉める店でいかがも何もないのだけれど。
ベッドの上の毛布がもそもそと動く。
窓明かりから顔を背けるために寝返りを打ったようにしか見えない。
起きる気が無い。
いつものことだけれど、ため息が出る。
無理に起こすようなことはせず、廊下からワゴンを引き入れ、お茶を入れる。
個人的には青臭い、苦いと感じる茶葉だ。
袋を見れば名前くらいはわかるが、それがどんな茶なのかは私にはわからない。この茶葉を、この量でと言われたそのままだ。
ゆっくりと立ち上る香りに合わせるように、毛布がもそもそと動く。
「‥‥、おはよう」
人の形に丸まった毛布の向こうから、もごもごとくぐもった声が聞こえてきた。
うちのご主人様はまだ年若い女性で、顔立ちは良いと思う。この辺りの平均的な顔立ちと比べると、若干掘りが深いかなと感じる。
顔立ちの良い良家のお姉様風なのに、肩までの黒髪はぼさぼさだ。きちんと櫛を入れればふんわりと、入れなければ本当にぼさぼさになる。
櫛を入れたところで見る人は少ないしどちらでも良いとは本人の談だ。
それでも家の中の目につくところを、ぼさぼさの髪でうろうろされると気になるので、朝いちばんにきちんと櫛を入れる。
体形は女性らしい柔らかさがある。あるのだが着るものがその辺のおばちゃん達と変わらないような飾り気のない簡素なものばかりで、非常にもったいない。
もう少しおしゃれにも気を使えば、少ない外出時にも多少の出会いがありそうなものなのに。
以前そんな話をしたところ「見せる相手なんてお前くらいしかいないのに、意味がないだろう」と言われ、なんとも言えない気持ちになった。
見せる相手にわたしが入っているのはうれしいのだが、若い女性としてはそれはさすがにどうなのだろう。
「今日のお天気は曇りです。昨日までは良く晴れましたけれど今日はそうはいきませんでしたね。一日こんな感じになりそうですよ」
朝のあいさつ代わりに空模様を解説する。まだ目が覚めてこないのか返事は無い。
ベッドの上でぼーっとしているところを後ろから髪をとかし、着替える服を用意したところでいったん下がって待つ。
「さ、着替えてくださいな。お茶が冷めてしまいますよ」
着替えるくらいは自分でしないと目が覚めてこないと本人は言う。
先ほど入れたお茶がそろそろ冷めてくる頃合いなのだ。
ベッドに座ったまま体をゆっくりと揺らしていたご主人様もさすがに目が覚めてきたのか、そのまま着替えを始め、脱いだ寝間着を放り出し、手が届く位置に置いておいた服に手を伸ばし、座ったままにそれを着終えるとベッドから降りて伸びをする。ぐぐぐっと伸ばす背は高く、すらりとしている。
体を覚ましたら、次にお茶を手にして立ったまま一息に飲み、気持ちを覚ます。
とても味や香りを楽しむ風には見えないけれど、これで良いらしい。
基本は一杯。たまに二杯目を欲しがる時もあるけれど、その時も冷めるまでは手を付けず、一息に飲む。
楽しむためではなく、苦いお茶を飲むことで無理矢理目を覚まさせているのではないかと疑っている。わたしから見れば、まさに気持ちを覚ますためのお茶だ。
「おはようございます。目は覚めましたか?」
「ああ、おはよう。良い天気だねといきたいところだったが、そういう日ではないのだね」
「そんな気がします。どんよりとしていて、晴れ間が見えません。今日はお洗濯をしたかったのですが、だめみたいです」
ここ最近、あまり天気の良くない日が続いている。
そろそろ洗濯日和といえる日が欲しい。枕カバーとか、シーツとか、寝具に洗いたい物が溜まってきているのだ。
朝の一通りがすんだところで日常の作業に進む。
階段を下り、二階の台所で準備してあった朝食をテーブルに並べる。二人分だ。
本来なら使用人が主人と共に食事をとるなんてありえないだろうけれど、うちではこれが普通のことだ。
厳しい執事さんがいるような家じゃなくて良かった。もしいればきっと二人して大目玉だろう。
これはご主人様の「二人しかいないのに別々に取るのも寂しいじゃないか。それに、手間だろう?」との言葉でなったことだ。
最初のうちこそ多少の抵抗感もあったが、もう慣れた。
わたしもご主人様も食欲旺盛な方ではないので、朝食は軽く。素焼きのパンに付け合わせを少々。それから今度こそ味も香りも良いお茶を。
食事とお茶が用意できたら、取り込んで皺を伸ばしておいた新聞をご主人様が読みやすいように脇に置く。
テーブルが整ったところを見計らったように降りてきたご主人様は新聞を広げ、お茶に口をつける。
ここからまたゆっくりとした時間が進んでいくわけだけれど、自営業者としてこれで良いのだろうかという疑問がちらりと頭に浮かぶこともある。
慣れとは恐ろしいもので、その疑問もすぐに霧散して、わたしも自分の朝食をご主人様の向かいに並べる。
手を合わせ、きっとどこかにはいる神様に祈りを捧げる。それとご主人様にも感謝を。
ご主人様は無神論者だそうで、この手のお祈りは一切しない。
食事のときに手を合わせるとしたら、それは糧を生み出す人たちや、食事を用意したわたしに対してになるのだという。
冗談だと思っていたら一度本当にわたしに対して手を合わせられた。あれは恐ろしいので二度としないでいただきたい。
仕方がないのでわたしはそっと、毎日おいしい食事を食べられることにお祈りをする。
ありがとう。いただきます。
これが我が家のいつもの朝の光景。
我が家。
孤児院の門前に捨てられた子供で、ある程度の年齢になって未来が狭まりつつあったわたしを引き取ってくれたご主人様との二人暮らし。
戦争孤児だったのか貧しくて捨てられた孤児だったのか。たぶん後者。特に何かとくいなことがあるとかもない平凡なわたしとの。
朝起きたら家の中を暮らしやすく整え、ご主人様のお世話をし、一緒に店を切り盛りする。一日の終わりには二人で食事をして、お茶を飲み、お風呂に入ったりしてゆったりとした時間をすごす。締めくくりはお互いにおやすみの挨拶して寝室へ入るのだ。
家族のいないわたしにとって、ようやく手に入れた我が家だ。こんな言い方はご主人様に失礼かとも思うのだけれど、ようやく手に入れた家族なのだ。
同世代の競争相手と共に、生きるために必死だった時間は終わった。
わたしは優しくきれいなご主人様のもとで、おはようからおやすみまでを温かく穏やかにすごせている。
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