5日目:愛すればこそ
目が覚めたら、お姉ちゃんの顔が目の前にあった。いつもと違って、隣に寝転んで「おはよう」と声をかけてくれている。ちょっと、意外だった。てっきり僕より早く起きて、何か準備をしてから朝ご飯の用意をしているものだと思っていた。
だけど彼女は僕をゆっくりと抱き起こし、「ちょっとまっててね」と朝食を取りに行き、戻ってきた。そうして二人で穏やかに朝食を摂る。お姉ちゃんの顔は笑顔だったけれど、その目の奥は笑っていない気がした。
朝食を終えると、お姉ちゃんは部屋を出ていく。ちょっと出かけてくる、のだそうだ。僕は引き止めるべきか迷ったけど、結局引き止められなかった。ここで引き止めて何かを言っても、シラを切り通されるだろう。
僕は十円玉を回収し、慣れた匍匐前進で部屋を出る。そうして鍵付きの部屋の鍵を開け、足枷の鍵を外した。久しぶりに自分の意志で自分の足で立ち、若干ふらつきながら玄関まで向かう。早く行かないと見失ってしまう。
靴があるかわからなかったから、裸足で家を飛び出した。
お姉ちゃんの家は、大きなマンションの一室だった。眩しい日差しに目を閉じ、廊下から階下を見下ろす。マンションの棟から出たお姉ちゃんの姿があった。
僕は急いで下まで降りて、お姉ちゃんの後をつける。裸足だったのは、正解だったかもしれない。足音を極限まで抑えられる。監禁生活直前まで履いていたのはそれなりに足音のするタイプの硬いスニーカーだったから、よかった。
電柱の影に、車の陰に隠れながらお姉ちゃんをつけていくと、彼女はマンションの近所の公園に入っていった。特に何の変哲もない公園だ。滑り台があって、ブランコがあって、ベンチがある。
けれど、ただそれだけ。
その公園に、見知った人たちがいた。竹藤とその取り巻き、そしてイジメを見て見ぬフリした担任教師がお姉ちゃんたちに声をかけている。今ここでやるのか……? こんな住宅街の公園で?
しかし、そうじゃないらしい。まずい、こっちに向かってくる。僕は路地に隠れ、また彼女らの後ろをついていった。何か話をしているみたいだけど、何も聞こえない。バレないほど離れると、会話は聞こえないのか。
離れながらもターゲットの会話をしっかり聞く探偵ものがフィクションなのだと、今ようやくわかった気がする。
しばらく歩いて、お姉ちゃんたちはまたマンションに戻っていった。僕もマンションに戻る。お姉ちゃんはどういうわけか、全員を家に連れ込んだ。
全員が家に入ったのを見届けてから、家に入る。幸い、鍵はかかっていなかった。
「な、なにをするんだ!」
「ひっ……包丁?」
「なにをするって? お前たちこそ何をしたかわかってるの!?」
男女の怒声が聞こえてくる。担任教師の声、竹藤の声、お姉ちゃんの声だ。声がするのは、リビングのほうだ。駆け出し、リビングに入ると全員が僕を見る。お姉ちゃんは彼らと対峙し、包丁を握っていた。
「な、凪くん……どうして」
「な、お前!?」
「お前ら……結託して俺達を騙したな?」
担任が目をとんがらせて僕を見る。なんて血走った目をしているんだ、この人は。
お姉ちゃんの衣服が乱れているのが見えて、僕はなんとなく状況を察した。なるほど、お姉ちゃんはこいつらに色仕掛けをしたらしい。入念に準備をしたんだろう。全員を同じ日に同じ場所に集め、ここに連れ込んでいざそのときになったら、お姉ちゃんは隠し持っていた包丁を彼らに突きつけたのか。
違うかもしれないけど、そう考えるのが自然な状況だった。
心臓はうるさいくらいに音を鳴らしているのに、息も切れているのに、妙に冷静な自分がいる。
お姉ちゃんに歩み寄ると、彼女は包丁を持ったまま後ずさった。
「お姉ちゃん、もういいんだよ」
「……何が?」
「全部知ってるんだ。お姉ちゃんが何をしてきたのか」
僕の言葉に、彼女の顔が青くなった気がした。
「おじさんとおばさんを陥れて、僕のお父さんと不倫してお母さんと、お父さんの新しい恋人に送りつけたんだよね?」
「な、何をしてるんだ! お前ら! こんなことしてただですむと――」
「黙ってろ!」
出し慣れていない大声をあげると、シンとした静寂が耳に返ってきた。担任たちはもう、口を挟めないだろう。状況が状況だから、僕の大声なんかでも威圧されてくれたらしい。
お姉ちゃんはただじっと僕を見て、それから目を逸らし、また見てを繰り返している。
「それでお母さんとお父さんの恋人が、お父さんを刺した。全部復讐なんだよね?」
「……」
だんまり、か。
「それで今度はこいつらに復讐しようとしたけど、弱みを作るのが難しいから殺そうとしてる。きっと色仕掛けでここまで誘ったんだよね」
「凪くん……」
「もうさ、そんなことしなくていいんだよ」
「……っ! よくない!」
お姉ちゃんが頭を振って声を荒げた。
「そいつらは君を殺そうとしたんだよ? そこの教師も君が苦しんでるのに見て見ぬ振りで、それどころか笑ってたんだよ? 何もよくないよ!」
知っている。担任教師は僕がいじめられている現場に遭遇しても、竹藤たちに対して「あんまりやりすぎんなよ」と笑っていた。お姉ちゃんは彼のことをしっかり調べたらしい。
確かに、許せない気持ちは僕にもある。
竹藤たちに対しても、僕は危うく死にかけた。
だけど、あのときの僕は、心のどこかで死を望んでいたんだ。もう人生には何の希望もないなんて、思い込んで。
その誤解を解いてくれたのは、目の前にいるこの人だ。子供の頃から僕を助けてくれて、僕にたくさん甘えてくれて、一緒に遊んでくれた大好きな人だ。僕にとっての最愛の人が、この5日間で、生きる希望をくれたんだ。
僕には、それだけあればいい。
「僕は、こいつらに死んでほしいなんて思わない」
「どうして?」
「んー、難しいな」
こいつらが死ねば、スッキリするだろうか。
いいや、しないだろう。
だって、こいつらをここで殺させてしまえば、僕はお姉ちゃんと会えなくなる。そのほうが、イジメられるよりも、親に捨てられるよりもずっと辛い。
「お姉ちゃんのことが好きだから」
「理由になってないよ」
「ねえ、僕の幸せって何?」
僕が聞くと、お姉ちゃんが目を見開いた。
「そんなの……イジメが無くなって、また普通に生きられるようになることでしょ?」
思わず、ため息が出た。
「違うよ。僕はあなたといるのが幸せなんだ」
僕にとっての幸せは、僕が決めるものだ。お姉ちゃんにとっては普通の生活に戻ることが僕の幸せなのかもしれないけれど、僕はそうじゃない。
それに、お父さんたちはもういないんだから、普通の生活に戻ることなんてもう叶わない。お姉ちゃん自身も、わかっているはずだ。
そして、僕は別にお父さんたちに戻ってきて欲しいとは思っていない。そりゃ子供だけで生活するのは大変だし、家族が仲良かった頃が懐かしいけど、それだけだ。今更戻ってこられたって、むしろ困るし、もうあの頃のような仲良し家族に戻ることはないだろう。
「……どいてよ」
「どかないよ」
「どいてってば!」
お姉ちゃんが包丁を振った。僕の頬を掠めたらしく、頬から血が流れる。痛みは、不思議となかった。
彼女の「あっ」という小さな声が漏れた。
「僕の恨みを勝手に一人で全部背負い込んで、肩代わりしようとしないでよ」
「だけど……」
「ああもう、だけどだってってうるさいなあ!」
僕は駆け出し、彼女の肩を抱いた。包丁が刺さるかもしれなかったけれど、構いはしなかった。幸い、彼女が咄嗟に手を降ろしたみたいで、刺さることはなかったけれど。
僕の腕の中で、彼女が震える。
「好きなんだ! 愛してるんだ! 佳奈!」
僕の叫び声に、彼女の嗚咽が混ざって耳に反響する。彼女の手から、包丁が落ちた。
「僕が君を守れるくらいの男になるから。君がもう苦しまなくていいようにするから。だから、これ以上自分を犠牲にしないでよ」
「……ぐすっ、ひっく、うええええええええん!」
声をあげて、お姉ちゃんが泣き崩れる。僕は肩を抱いたまま膝をつき、きつく彼女を抱きしめた。それから後ろを振り返る。みんな、呆然と立ち尽くしているようだった。
「お前らは帰れ」
「……た、ただじゃおかないからな!」
「覚えてろよ! ほら行くぞお前ら!」
安全だとわかるや否や、元気な奴らだ。
彼らが帰っていく音がする。僕の腕の中で子供みたいに泣きじゃくるお姉ちゃんは、僕のパーカーを強く掴んでいた。
「愛してるよ」
「うん、うん……私も、愛してる」
ひとしきり泣いた後、僕たちは警察署に行った。お姉ちゃんが自首すると言い出したんだ。僕も、そのほうがいいと思った。
彼らを殺そうとしたのは本当だから。彼らが警察に通報する前に、自首したほうがいいだろうと思った。僕は彼女の手を強く握って、一緒に出頭した。
最後に見たのは、泣き腫らした笑顔だった。
「絶対帰ってくるから。待っててね」
「うん、行ってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
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