*

「ゆ、有希さん、どうして……」

「こんばんは。ちょっと何? ずいぶん元気ないんじゃない? 大丈夫? 物凄く流行ってないオーラ出てるけど」


 能天気なぐらい底抜けに明るい声は、琴ちゃんだ。そこで初めて琴ちゃんが浴衣姿である事に気づき、もう一度有希さんに視線を戻した瞬間、俺の全身を稲妻が貫いた。

 有希さんも、浴衣を着ていた。

 琴ちゃんは白地に紺で梅を染め抜いた明るい浴衣だけど、有希さんは濃紺に、同系色の淡い水色で紫陽花を散らした控え目なものだった。頭は簡単にくるりとまとめただけで飾り一つなく、でもそれがとっても上品で、すっかり目を奪われてしまった。


「お、どうしちゃったの浴衣なんて着ちゃって。だいぶ無理してんじゃん?」

「何言ってんの。大人の色香ってやつでしょ。見てほら、陽君なんて固まっちゃってるから」


 悟さんの冷やかしに琴ちゃんが返す。全員の視線が集中しても、俺はただ俯くしかなかった。

 浴衣姿の有希さんは、心臓が止まりそうなぐらい綺麗だった。


「すっごーい。可愛い! 浴衣なんてすごいですね。お子さん、どうしたんですか?」


 乃愛も手を叩いてはしゃいだ。


「今日はね、うちの旦那が見てくれてるんだ。有希っぺんちの悠斗君も一緒に。二人で浴衣着て花火見に行こうって、前々から計画してて。毎年旦那は会社の飲み会だから、今年ぐらい譲りなさいよって脅して」

「良くないなぁ。そんな格好で歩いてたら、ナンパされちゃうんじゃない?」

「まさか! もっと若い子いっぱいいるのに、わざわざウチらになんて声掛けないでしょ。そんな物好き、陽君ぐらいじゃない?」

「いちいち俺の名前出すなよ」


 いい加減俺は琴ちゃんに噛み付いた。その隣で有希さんがクスクスと団扇で口元を押さえて笑う。ああ、でも、これはどうしようもない。何を言われても仕方がないぐらい、浴衣姿の有希さんは圧倒的な求心力でもって、俺の目を釘づけにしてしまう。


「それにしても流行ってないね。今年は何出してるの?」

「食う? 不味くはないぜ」


 問いかける琴ちゃんに、悟さんはほかほかの豚角煮まんを差し出した。琴ちゃんは「うわっ」と顔をしかめる。


「これ、どうせあれでしょ? 稲谷さんでしょ? 全然店のイメージに合ってない。しかもこんな暑い日に豚まんなんて食べたくないし」

「当たり前だろ。俺がやるはずないじゃんか。もうただでもいいから食ってってよ。こんなの売れ残したって、使い道ねえんだから」


 悟さんはため息をついた。


「あ、そうだ。悟さん、じゃあ今からカルツォーネやりましょうよ。稲谷シェフも帰ったし」

「馬鹿言うなよ。去年は俺、健と二人で前の日からほぼ徹夜で準備したんだからな。今から急にやれるわけないだろ」

「えー、なんか今年はつまんないなー」


 せっかく思いついたらしい提案もすげなく却下され、乃愛はテーブルに身を投げ出すようにして嘆いた。かと思いきや、ふと、俺の顔を見、有希さんの顔を見、久坂マネージャーの顔を見――とキョロキョロと視線を彷徨わせたかと思えば、急に目を輝かせて言った。


「そうだ! マネージャー、もうどうせ忙しくなりそうもないから、陽君はあがって貰った方がいいんじゃないですか?」

「え? あがるって……せっかくバイト来たのに、もう?」

「あ、いいね! 陽君も一緒に行こうよ」


 戸惑う俺を余所に、一も二もなく賛成したのは琴ちゃんだ。その言葉でようやく、俺は乃愛の意図に気づいた。

 有希さんと一緒に行けって事か。

 その瞬間、心臓がバクバクと高鳴った。浴衣姿の有希さんと一緒に花火大会なんて、願ってもないシチュエーションだ。あまりにも現実離れし過ぎていて、想像した事すら無かった。

 とはいえ、乗り気なのはあくまで琴ちゃんで、有希さんが誘っている訳ではない。有希さんの反応はどうかと言えば――いつも通り穏やかに微笑むばかりで、特に何を言うでもなければ、嫌がるでもない。笑顔だけ見れば、喜んでいるように見えなくもない。


「まぁそうだな。これ以上はお客も期待できないだろうし、正直店にとっては帰ってもらえた方が助かるよ」


 久坂マネージャーも殊の外あっさりと認めてくれた。


「え? まさかお前帰んの? 後でフライヤーとかテントとか、片づけなくちゃならないんだぜ」

「いいじゃないですか。私、最後まで残って片づけ手伝いますから」


 唯一悟さんだけが不満そうな顔をしたものの、乃愛が助け舟を出したので、渋々といった様子で了承してくれた。


「じゃ、早く準備してきてね」

「う、うん」


 俺は慌てて店に戻って、着替えた。まさか自分が花火大会の客側に回るとは思っていなかったから、いつものTシャツとジーンズしかない。有希さんはあんなにも素敵な浴衣姿なのに。でもこればっかりはどうしようもない。一気に着替え、慌てて店を飛び出したら、


「早すぎる」

「張り切り過ぎだよ」


 とみんなに笑われてしまった。


「じゃ、すみません。お先します」


 お辞儀して去ろうとする俺に対し、乃愛は片目を瞑って見せる。お礼の意味で、右手を少しだけ挙げて応えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る