*

「あ、りーちゃん!」


 乃愛の声に弾かれたように顔を上げると、乃愛が手を振る先に、りーとももちゃん、くーちゃんの三人組の姿があった。最初はぎこちなく笑い返していたけれど、乃愛に呼ばれるとテントの前までやって来た。

 リーは紺、モモちゃんはピンクの浴衣を着ていた。黄色い浴衣を着たくーちゃんだけは、固い表情で少し距離を置いたまま、それ以上近づこうとはしなかった。


「もしかして、来てくれたの?」

「みんないるかと思って、こっそり様子見て来ようかって」


 乃愛に答えた後、りーはチラリと俺に目を向けた。ぎくり、と気まずいような、気恥ずかしいような、苦い感情が込み上げる。

 りー達がクビになってから、直接顔を合わせるのは初めてだった。

 あの日の夜、りー達に対する申し訳なさや自分に対する不甲斐なさ、悔しさ、久坂マネージャーや店に対する怒りがない交ぜになってどうしようもなくなった俺が、りーに対してできたのは、


『ゴメンな』


 と僅かに一言メッセージを送る事だけだった。


『先輩は謝らないで下さい。逆に今までいっぱい迷惑かけて、足手まといばっかりですみませんでした。そのうちモモちゃんと遊びに行きますね』


 りーからの返事には笑顔の絵文字付で、慰めるはずがむしろ慰められてしまったようで、その後俺は返信すら出来ずに終わってしまった。

 結局あの時、俺はりー達に対して何一つ力になってやる事も出来ず――その思いが後ろめたさにも似た感情となって、俺を後ろ暗くさせるのだ。


「実は明日から、新しいアルバイト始めるんです」


 そんな俺の勝手な自己嫌悪を知る由もなく、モモちゃんが明るい声で言った。


「もう次決まったの? おめでとう。どこ?」

「春ぐらいに出来た、『マンマミーヤ』っていうイタリアンレストランがあるじゃないですか。あそこです」


 駅前の幹線道路沿いに立つ、俺ンジ色の瓦屋根と真っ白い漆喰壁が鮮やかな地中海風の建物が思い起こされた。夏前に有希さんや琴ちゃんと一緒に行った店だ。何かというとパルミジャーノの大きな塊をワゴンに載せて運んできて、ゴリゴリ削ってはサラダの上に山のように載せたり、熱々のパスタを和えたりする、チーズ推しの店だった。


「ああ、あの駅前通りの。結構評判良いよね? ウチの元常連さん達も結構向こうに流れてるって噂だけど」

「そうなんですよー。前に毎週のように来てた真田さんっていたじゃないですか? 保険会社の営業してる。この間面接受けに行った日も、あの人にばったり会っちゃって。向こうの店長さんにも、すごくいい子達だから採用した方がいいよって言ってくれて」

「店長さんも『フィオーレ』でアルバイトしてたって言ったら、じゃあすぐ来てくれていいよって言ってくれました。あそこで働いてたんなら間違いないからって。何回か偵察に来た事あるみたいですよ」


 二人ともクビになった事なんて忘れたかのようにニコニコと本当に嬉しそうに話す。『マンマミーヤ』でりーやモモちゃんがあの大きなチーズの塊を操るのかと思うと、大変なんじゃないかと心配してしまう。でも、本当に真面目な子達だから、始めは多少なりとも失敗を重ねたとしても、すぐに間違いのない仕事をするようになるだろう。

 それよりも――やっぱり距離を置いたまま、まるで赤の他人のような顔をしてそっぽを向くくーちゃんが気になった。いつの間にかバイトに来なくなってしまい、そのままりーやモモちゃんと一緒にクビになってしまったのだけど。別に彼女に避けられる程、酷い仕打ちや扱いをした人間はいないはずだ。俺や乃愛だって、りーやモモちゃんと大差なく面倒を見ていたつもりだけど。ああまで避けられている風だと、どうも気がかりだ。


「先輩、あの……」


 『マンマミーヤ』に『フィオーレ』の元常連客のうち誰が来ているか、なんて話で盛り上がっていた乃愛とりー、モモちゃんの三人だったが、話が一段落したところでりーが俺に向けて切り出した。


「私、先輩と一緒に働けて、先輩に色々と教えて貰えて、本当に良かったと思ってますんで。先輩に教えて貰ったからこそ、『マンマミーヤ』でも働かせて貰える事になったから……だから、ホント今までありがとうございました」

 とぺこりと頭を下げる。


「わぁ、真面目ぇ!」

「だって、ちゃんと直接お礼言いたかったんだもん。私の恩人だよ! 先生みたいなもんだし!」


 モモちゃんの冷やかしに、りーは顔を真っ赤にして反論した。


「お兄ちゃんでしょ?」


 と乃愛も加わる。


「次が決まったんなら良かったよ。じゃあ今度、俺も『マンマミーヤ』に行ってみるから」

「やーめーてー。先輩に監視されたら逆に失敗しちゃう」

「監視じゃないって。普通に食事しに行くだけだよ」

「一緒ですよー。見られてるって思ったら緊張するし」


 二人はきゃーきゃー大騒ぎだ。その割に、


「じゃあ、今度絶対来て下さいね」

「待ってますよー」


 去り際にはそう言い残して、元気に手を振りながら帰って行く。少し遅れて、くーちゃんの黄色い浴衣姿が続いた。

 りー達がいなくなると、明かりが消えたようにふっと空気が暗くなった。二人が来る前はしばらくなかった明るい雰囲気に、なんだか心が洗われた思いだった。改めて、どうしてあんな二人をクビにしなきゃならなかったんだろうと疑問が首をもたげてくる。

 ふと見れば、残っているのは悟さんだけで、久坂マネージャーと稲谷シェフは姿を消していた。


「あれ? シェフは?」

「お前らが常連が移っただの、ウチの店の文句ばかり言ってるから帰ったよ」


 悟さんが苦笑する。確かに乃愛とりー達の話題は、稲谷シェフにとってはいたたまれない話だったかもしれない。でも多分、誰にも相手にされず一人で飲み続ける事に、単純に飽きたせいもあるだろう。きっと駅前のスナックやキャバクラに流れて行ったに違いない。


「マネージャーは?」

「なんか用事思い出したって店の中行ったぜ。あ、ほら。帰って来たじゃん」

「おや、りーちゃん達帰っちゃったの? 残念だなぁ。飲み物でもサービスしようと思ったのに」

「遅いですよー。何してたんですか? せっかくりーちゃん達が来たっていうのに」


 ようやく戻ってきた久坂マネージャーに、乃愛が頬を膨らませる。

 マネージャーの屈託ない笑顔を見つつ、本音はクビにしたりー達に合わせる顔が無かったんじゃないか、なんて邪推してしまう。

 俺の久坂マネージャーに対する印象は、りー達の一件以来大きく揺らいでいた。元々は俺にサービスのイロハを教えてくれた人であり、久坂マネージャーがいたからこそ、今の自分がいると思える存在だった。りーの言葉を借りるならば、俺にとっては恩師と敬うべき相手だ……と、思っていたのだが。

 結局は会社の意向に百パーセント従って、大事なアルバイトをクビにしたり、誰がどう見たってどうしようもない稲谷シェフの中華料理を黙認したりするんだから、そんなに頼れるべき人ではないのかもしれない。そんな風に思えてしまったのだ。

 今だって乃愛と楽しく話してはいるが、明日になれば乃愛だってクビになるかもしれない。俺だってそうだ。サービスも教えるのも上手で、優しくて、でも厳しくて、誰からも尊敬される紳士のような人だと信頼しきっていたが、その実、腹の底では何を考えているのかわからないのだから。

 りー達がクビになったと聞いた時には激昂したけれど、今になってみればそうなって良かったのかも、とすら思ってしまう。評判の良い『マンマミーヤ』で、見知った元常連の客も多くいる中で働けるのであれば、落ち目の『フィオーレ』で働き続けるよりもやりがいも大きいのではないか。新天地で輝こうとしているのはりー達で、燻って沈みかけた船の上でもがいているのは俺達の方なんじゃないか、なんて考えが浮かんでくる。もしかしたら俺達も、別のアルバイトを探した方がいいのかもしれない。『フィオーレ』に愛着があると言っても、しょせんただのアルバイトだ。もっと条件が良く、やりがいのある職場へ移るのは当然の権利だろう。このまま沈みゆく泥船にしがみつく理由なんて――。


「……おーい、何ぼーっとしてるの? 陽君、おーい?」


 目の前でひらひらと手を振られて、俺ははっと我に返った。


「大丈夫? もしかして寝てたの?」


 いたずらっ子のような笑みを浮かべる有希さんの顔が目の前にあって、心臓が飛び出そうになった。

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