陽
*
バイキングの内容がリニューアルという名のグレードダウンをしてからも、しばらくの間はこれまで通りの客数が続いていた。しかし顧客満足度の低下は明らかで、リピーターの中には「もう二度と来ない!」と吐き捨てて行く人もいれば、「どうしちゃったの?」と本気で心配してくれる人もいた。三十分以上いて、食べられたのはチャーハンとチリソース、パスタとピザをちょっどだけ。仕方なくポテトフライで腹を満たして帰ったという人もいた。
これまでは忙しいと言っても、ほとんどの客は喜んで帰ってくれていたから、大変さとやりがいとは等価交換か、むしろ喜びの方が大きいぐらいの比重だった。段々と目に見えて客数が減って行き、ちょっとずつ仕事は楽になって行ったけれど、それが嬉しいと思えるような事は全く無かった。
他にも様々な事が目に見えて変わりつつあった。
俺達にまかないが支給される事も無くなった。
これまではバイキングの残りが当たり前のように支給されていたけれど、稲谷シェフが来てからは、まかないどころか味見さえ許されなくなったのである。
「悪いな。そういう事だから、昼は自分で用意してくれよ」
寝耳に水の俺達にそう謝ったのは、悟さんだった。
どうやら本社から「まかないという名目で無駄に食材を浪費してる」という勘繰りがあったらしい。俺達の目から見ても決してそんなはずはないのだが、疑いがある以上、まかないの提供は自粛するとの事だった。
その割に、
「さ、悟ちゃん。飯食おうか」
とランチタイムが終わればキッチンの二人だけは揃って食事を始める。
「この間マルイチ水産に言ったら車海老のいいのがあるって言うからよぉ、試食用にサンプル持って来いって言ったんだ。そしたらあんにゃろう、発泡スチロール丸々一個分持ってきやがってよ。俺に袖の下でも握らせようってんだ。馬鹿野郎、物だけ置いてけって追い返してやったぜ。前の高杉さんってのは、だいぶ悪さしてたんだろうな」
そんな風に高笑いしながら、まかないにクルマエビのXO醤炒めなんていう見た事もない料理を食べていたりする。
何かというと前任の高杉シェフをくさすが、高杉シェフは決して賄賂を受け取るような人じゃなかったのは誰もが知っている。
その後本社もだいぶ実体調査を進めたらしいが、高杉シェフの不正を示すような証拠は一切出てこなかったらしい。そうは言っても「ずいぶん上手くやっていたようだ」「そっちのプロなんじゃないか」なんて猜疑されるばかりで、社長や本社にとっては高杉シェフに対する悪いイメージが払拭される事は無かった。悪魔の証明と同じで、無実を証明するのは土台無理な話だ。
だから車海老の一件についても、実際には、「お前ら、前のシェフにだいぶ賄賂送ってたんだってな?」と来る人構わず稲谷シェフが脅すので、業者側が逆に気を使ってサービスをしてくれているだけというのが実際のところだ。
そうしてアルバイトへのまかない支給を止めたかと思えば、別の日には、
「悟ちゃん、お姉さん達にフルーツパフェ作ってやれよ」
などと突如言い出し、琴ちゃんと有希さんに向けてパフェを作らせたりした。
しかも休憩中でもなくランチの真っ最中で、客あしらいの最中に「パフェでも食って休みなよ」なんてやられた二人にとっては溜まったもんじゃない。断る訳にも行かず、キッチンに入る度に申し訳程度に一口食べてはホールに飛び出して行くような有様だ。
稲谷シェフは二人の都合なんてさして気にも留めず、
「今度暑気払いしようよ。我々大人だけの。学生さん達子どもは置いといてさ。大人だけで酒でも飲みながらじっくり深い話でも」
なんて暗に口説き始めたりするから、俺もいい加減堪忍袋の尾が切れそうだったが、
「私達も我慢してるんだから。気にしない気にしない」
なんて有希さんから微笑みかけられると、怒る事も出来ないのだった。
稲谷シェフはどうやら有希さんや琴ちゃんのような年代の人妻が好きなようで、一方では、
「おう、姉ちゃん。あんまり辛気臭え顔していると雰囲気悪くなるから、向こう行ってろ」
乃愛に向かってしっしっと追い払うような仕草をするから、乃愛はそれまで所定の位置だったデシャップには立たなくなった。乃愛自身も稲谷シェフへの侮蔑を隠そうともしなかったから、望むところだといったところだろう。
更に、りーやももちゃんにも、
「お嬢。田舎臭い顔してないで、一発その辺の男にでも掘られて来い。色気が足りねえぞ」
「おい牛。お前だモーモー。お前はだいぶ太り過ぎだからもっといっぱい歩いて痩せろ。人間様は胃が一つしかないけど、牛は四つもあるんだぞ。そもそもが食い過ぎなんだ」
なんてセクハラどころではない暴言をぶつけるので、二人もまたあまりキッチンには寄り付かなくなった。
変わってキッチンの相手をするのは琴ちゃんや有希さんになったものの、土日になれば二人は出勤できない。その為、キッチンの相手をするのはもっぱら久坂マネージャーか俺の仕事になった。
本来であれば俺も、稲谷シェフと相対するようなポジションはやりたくないのだが、他の女の子達がやりたくないというのであれば、やらざるを得ないというのが本音である。
ところが稲谷シェフの方はどういう勘違いをしているのか、俺に対しては好印象を持っているようだった。
「ようよう」
と必ず俺の名前を二回繰り返して呼び、
「はい」
と返事をすれば、
「お前の事なんて呼んでねえよ。ヨーヨーの話したんだ。知ってるか。ブランコとか犬の散歩とか。俺達が子供の頃はよく練習したもんだ」
なんてくだらないからかい方をする。今時子どもでも見ないような低次元の冗談に、突っ込む気すら失せてしまう。かと思えば、
「ようよう、これ食ってみろ。フクロタケっつうんだ。今度使おうと思ってよ」
と中華料理の材料であるフクロタケを塩コショウでソテーしたものを、突然食べさせてくれたりする。プルプル、クニクニしてなかなかの美味だった。
「どうだ?」
「美味いっす」
「だろ? 今度黒こしょう炒めにして出すからよ」
稲谷シェフは嬉しそうに笑った。
しかし、後日大量に仕入れたものの、稲谷シェフが作った黒こしょう炒めはびっくりする程不評だった。あまりにも捌けないので処理を命じられた悟さんが、ポルチーニ茸の代用としてフクロタケのクリームパスタを作ったところ、瞬く間に売り切れてしまったのは溜飲が下がる思いだった。
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