*

 健ちゃんがいなくなったのは、そのすぐ後の事だ。

 俺はその場に居合わせなかったものの、聞くところによると突然仕事を放り投げて、出て行ってしまったらしい。高杉シェフに続けて二人目の退職には、俺達もショックは隠せなかった。

 健ちゃんは俺と同い年という事もあって、シェフや悟さんに比べると親しみやすい相手だった。下働きばかりで大変そうだったけれども、いつも黙々と働いていた。高杉シェフのしごきにも音を上げなかった健ちゃんが嫌になったというのだから、よっぽど稲谷シェフが合わなかったのだろう。

 そうしてお盆を目前に控えたある日の事、仕事が終わってさぁ帰ろうとタイムカードを押そうとすると、


「先輩、今までありがとうございました」


 とりーとモモちゃんに頭を下げられた。


「どういう事? まさか……辞めちゃうの?」

「辞めちゃうっていうか……」


 言いにくそうに顔を見合わせ、もじもじと逡巡する二人だったが、


「私達、クビになったんです」


 意を決したように、モモちゃんが言った。


「店が大変な状況だから、今までみたいに働かせてあげられないって言われて」

「それってつまり、クビっていう意味ですよね?」


 リーの目に、涙が滲んだ。

 理解が追い付かず、頭の中が真っ白になった。


「なんだよそれ? 誰に言われたんだ」

「久坂マネージャーです。でもマネージャーは悪くないんです。色々頑張ってくれたみたいで。でも、会社命令だからって」

「会社命令って……滅茶苦茶だろ? いくら客が減ってきたからって、バイト足りなくなっちゃうじゃんか」


 俺は居ても立ってもいられなくなって、レジで締め作業をしている久坂マネージャーの下へと急いだ。


「マネージャー、りーとモモちゃんがクビって、どういう事なんですか?」

「あぁ……」


 血相を変えて食ってかかる俺に、マネージャーは呻くような声で答えた。


「……悪い。なんとかしてやりたかったんだけど、どうにも出来なかった」

「じゃあこれからどうするんですか? もうすぐお盆でまた忙しくなるっていうのに。夏休みが終わったら、俺や乃愛だって毎日ずっとは来れませんよ。有希さんや琴ちゃんだって、休みの日は来れないじゃないですか。店、回らなくなっちゃいますよ!」

「わかってる。これからどうするかは、ちゃんと考えてるから」

「考えてるんなら教えて下さいよ。どうする気なんですか」

「……今は言えない。でも、考えてる。もう少し待ってくれ」


 冴えない表情のマネージャーに、俺はやり切れない想いを抱いたまま引き下がるしかなかった。


「おーおー、悪いなぁ。仲間思いなのは素晴らしいけど、会社はやっぱり経営が一番なんでね。そこんとこ、よく分かってくれよ」


 盗み聞きしていたのか、キッチンに戻った俺の肩を叩いたのは稲谷シェフだった。


「客が入ればいいってもんでもないんでね。要は、売上と経費のバランスが大事なんだ。前のシェフみたいにばかすか客入れても、馬鹿みたいに経費かけてりゃ意味がないからよ。売上が減ったとしても、ちゃんと人件費や原価を削って利益出すのが大事なんだよ」


 偉そうに講釈ぶる稲谷シェフに、俺の怒りは一気に沸点まで急上昇した。危うく手が出そうになるのを、必死の思いで食い止める。少なくとも、今怒りに身を任せるわけにはいかない。俺まで抜けたら、乃愛や有希さん、琴ちゃんに負担が掛かるばかりなのだ。

 それでも苛立ちは押さえようがなく、稲谷シェフに背を向けると、足早に店を出た。

 もうりーやモモちゃんの姿は見えなくなっていた。駅までの道を走って探したけれども、どこかに寄り道しているのか、見つける事が出来なかった。なんとか連絡を取ろうとしてスマホのアドレス帳からりーの電話番号を表示したまでは良いものの、通話ボタンを押す事は出来なかった。

 もしかしたら今頃、二人で慰め合っているのかもしれなかった。店が大変な状況だからとはいえ、クビになった人間もいれば、残る事を許された人間もいる。俺は残った側だ。今は、二人きりにしておいた方が良いのかもしれない。

 すっかり汗だくになった手で、俺はスマホをポケットにしまい、動悸を抑えようと天を仰いだ。

 悔しさや怒りや悲しみや自分自身に対する不甲斐なさやらが胸の中でぐるぐる渦巻いて、下を向いていたら涙がこぼれてしまいそうだった。

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