*
ほど無くして、彼のステーションワゴンがやって来た。すぐさま助手席に滑り込む。
「久しぶり」
と言う彼にも、笑顔はない。
彼に会えない数日の間、私の胸には彼に聞きたい質問や疑問や聞いて貰いたい愚痴や不満や不安が山ほどあって、それらはとうに私の胸の中には納まらない程いっぱいになって、今にも溢れてしまいそうだった。
口を開けば泣いてしまいそうで、私は何も言い出せずにいた。会う前まではあんなにも沢山の言葉で溢れていたのに。胸に鍵がかかってしまったかのように、何一つ吐き出す事ができない。
「乃愛」
彼は車を発進させず、その場で私の身体を抱き締めた。いつものように骨が軋む程、内臓が飛び出そうな程に強く、強く。でもどうしてか、私の胸には響かなかった。今までは抱き締めて貰えるだけで、あっという間に心が解きほぐれるようだったのに。
どうして抱き締めるの?
彼の行動に、白々しさすら感じてしまう。
これから別れ話をしようという男が、何をしようというのか。抱き締めれば顔を見ずに話せるとでも? それとも「こんなに好きだ。でも別れて欲しい」とでも言い出す気?
私の心は自分でも驚くぐらい毛羽立って、予想されうる彼の言葉や行動の全てを撥ね付けようと今か今かと反撃の機を伺っていた。しかし――、
「乃愛。お前だけは僕を信じてくれ」
彼から告げられた言葉はあまりにも予想外過ぎて、私は自分の耳を疑った。
「お願いだから、乃愛だけには信じて欲しいんだ」
「……何言ってるの?」
ようやく私は、言葉を発する事ができた。
顔を上げた彼は、決意と使命に満ち溢れたような、厳しい表情をしていた。
「これから色々と、厳しくやって行かなくちゃならない。乃愛達から見れば酷いと思われるかもしれない。でも、『フィオーレ』は今のままじゃあやって行けないんだ。今も苦しいけれど、もっともっと苦しい変革をしないと、続けて行けなくなってしまうんだよ」
彼に対する反抗的な気持ちはいつの間にか消えていた。今はただ、彼が何を言わんとするのかを聞くばかりだった。
「稲谷シェフが中華出身の人なのは僕も後から知ったから驚いたけど、原価や売上の管理については厳しい目を持った素晴らしい人だ。今は前の高杉シェフのイメージがあるから稲谷さんも本領を発揮できていないし、あまりにもギャップがあるように感じてしまうかもしれないけど、これから新しい『フィオーレ』が作られていけば、以前とはまた違う良い店になるはずなんだ」
それは違う、と喉元まで出かかったけど、つい飲み込んでしまった。サービスのプロで私よりもずっとキャリアの長い彼が言うのであれば、そうなのかもしれないと思えてきてしまうから不思議だ
これまでにも、彼の言葉が間違った事なんてなかった。『フィオーレ』に入ってからずっと、私は彼の言う通りにやってきたし、そうすれば全てが上手く行った。私達はより効率的によりプロらしくサービスをこなせたし、お客も満足してくれた。
彼が言うには、とにかく今は変革の時だという。以前はあまりにも低価格で良い料理を出し過ぎた。これから先、以前のスタイルを続ける事は出来ない。そうであるならば、以前の『フィオーレ』を期待する常連客には離れて貰わなければ困る。一旦固定客が離れて、そこから新たな『フィオーレ』のスタイルを確立する。
「クレームや苦情も増えるのは承知の上だ。でもその痛みだって、『フィオーレ』変わるためには必要なものなんだ」
「新しいスタイルって……稲谷さんにそんな事、本当にできるの?」
「ああ。これからは社長も僕も、色々とアイディアは出させてもらう。ここしばらく会社とも打合せを重ねてて、ある程度方針は決まって来てるんだ」
テーマはイタリアンと中華を融合させた創作オリエンタルスタイル。イタリアも中国もどちらも古代から続く歴史を持った世界でも有数の国であり、料理の中にも共通点は多い。麺の文化という点でも非常に似通ったものがある。日本には一流のイタリアン、一流の中華の店はいくらでもある。同じ土俵で勝負したのでは将来生き残っていけない。今後も見据え、オリジナルスタイルを確立する事で、日本でも指折りの店を作り出す事ができる。
会社はもう、以前のように『イル・ソーレ』や地域での人気店なんてものにこだわっていない。会社が目指し、『フィオーレ』が目指すべきは「日本有数の名店」にある。料理の面でも、経営面でも、日本で名だたる店を目指して行く。『フィオーレ』の立て直しに成功すれば、二号店、三号店の展開も視野には入っている。
「稲谷シェフはつい最近まで西の方で仕事をしていたからね。ちょっと味の地域差が掴めていないみたいだけど、慣れてくれば実力を発揮すると思うよ」
彼の言葉は呆気ない程に私の考えを塗り替えてしまう。
確かに私は、イタリアンの有名店である『フィオーレ』にイカチリやチャーハンは相応しくないと、頭から否定していた。バイキングのボリュームが減った事に対しても同様だ。でも、これまでが異常で、今が標準なのだとしたら。今の料金で出せるのはこれが普通だと言われてしまえば、経験の少ない私には反論の余地はない。
彼や稲谷シェフとは違って、私はただの素人の大学生なんだから。
それでも、果たして稲谷シェフの料理で新たな顧客が獲得できるのかどうかは、疑問だったけど。私が今の『フィオーレ』を利用したとしたら、まず間違いなく満足はしない。リピートはしないはずだ。
でもどうやら、彼が言うように会社には明確なビジョンがあるらしい。そうであるならば、私には彼を信じ、支える以外に道はない。
「実はね、昇進する事になったんだ」
彼はようやく笑顔を浮かべて、言った。
「昇進?」
「ああ。これまではマネージャーだったけど、来月からは正式に店長という事になる。これからはシェフとも対等な立場になるんだ」
「本当? すごいね! おめでとう!」
「ありがとう! 乃愛ならそう言ってくれると思ったよ。だからさ、乃愛も協力して欲しいんだ。一致団結しないと、この難局は乗り切れそうにない」
「……うん」
私は頷きを返した。そうは言っても、果たしてすぐに行動に移せるだろうか? 彼はともかく、やっぱり稲谷シェフに対しては嫌悪感が残ってしまう。少なくともデシャップで一日中顔を合わせるような仕事はしたくない。せめて面と向かって反目したりはしないようにしようと心掛けた。
「それで、一つ話がある」
ようやく本題に入るとでも言いたげに彼が言ったので、私は驚きを隠せなかった。
「乃愛も知っての通り、原価の方はだいぶ調整出来てきてる。ただ、それ以外にも経費はいっぱいあるんだ。今のままでは経営が苦しいから、もう少し経費も削減しなきゃならなくてね」
彼は少し迷った様子を見せ、言った。
「原価の次は、人件費を削らなくちゃならない」
「人件費って?」
「アルバイトを、削らなくちゃならないんだ」
私は呆然と彼の目を見つめ返した。
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