乃愛

*

 予想はしていた事だけど、また彼と会えない日が続いた。

 店も忙しい上、閉店後も引き継ぎやら今後の調整やら色々と忙しいという理由だったけれど、どうも私は彼が避けているんじゃないかと勘繰ってしまう。

 この間はあまりにも言い過ぎた、と反省している。

 高杉シェフが辞めたのは彼のせいじゃない。彼を責めてもどうにもならないのに、つい感情的になって彼にぶつけてしまった。彼にあんな醜態を晒したのは、初めてかもしれなかった。

 今までなら彼の話をうんうん聞いて、「すごいね」「大変だね」「あなただから出来るんだね」って素直に感心すると、彼は喜んで「ありがとう」「乃愛がいてくれると頑張れるよ」と、抱き締めたり、頭を撫でてくれたりした。私は自然な気持ちで彼を尊敬していたし、彼もまた、そんな私を可愛がってくれていたのだと思う。

 ところが、あんな風にやり場のない怒りをぶつけてしまったから、彼が幻滅してしまったんじゃないか。面倒くさい女だと思われたんじゃないか。会えない時間が長引けば長引く程、そんな不安が大きくなる。

 次に会ったら謝ろう。彼はきっと、これからまた店を良くする為のプランを考えているはずだ。彼の事だから、誰にも相談できずに一人で抱え込んでいるに違いない。もうあんな面倒臭い姿は二度と見せないから、彼が安心して考えを話せるように努めなきゃ。

 しかし思いとは裏腹に、新しく来た稲谷シェフに対する嫌悪感はどうしようもなかった。

 キッチンに漂うごま油の香りを嗅いだ時から、何か嫌な予感はした。実際にイカのチリソースやチャーハンが出てきた時には、眩暈がした。りーちゃんや琴ちゃんは笑ったけど、私には笑えなかった。

 あんな思いをして高杉シェフを追放した癖に、結果がこれ?

 今までならキッチンからどんなセクハラ発言を受けても我慢できたけど、稲谷シェフに対しては我慢がならなかった。作られる料理も、風貌も、声も、喋り方も、目つきも、全身から漂うインチキ臭い雰囲気も、全部が耐えられなかった。生理的に無理、という言葉を使うべき相手に初めて出会った気分だった。

 悟さんも健ちゃんも、不本意そうな顔をして働いていた。それはそうだ。稲谷シェフの指示の元生み出される料理は、同じ店の同じキッチンから生み出されたとは思えないような粗悪品ばかりなんだから。

 その癖、ケチケチして料理の補充も遅い。客がどれだけ怒っていても気にもしない。私があんまりにも催促するものだから、稲谷シェフは彼に「あのクソ女は態度が悪いからキッチンに入れるな」と言いつけ、私は慣れ親しんだデシャップから離れる事になった。

 デシャップを離れ、ホールに出た事から会計に携わる機会も増えたけど、明らかに客離れが始まっていた。せっかく途中まで貯めたスタンプカードを「もういらない」と投げ捨てて行く人もいた。千円で一個、十個集めるとマルゲリータピッツァ一枚と交換できる、人気のスタンプカードだったのに。


「ピザなんてちょちょっとソース塗って、パラパラっとチーズのせりゃそれでいいんだよ。今使ってるチーズが切れたら、もっと安いのに変えよう。業者に言えばあるだろ? ピザ用のやつ」


 スーパーで売ってるような細切れのとろけるチーズを指しているのは明らかだった。喫茶店のピザトーストじゃあるまいし、そんな物を出そうというのかと、耳を疑ってしまった。

 怒るお客さんはまだいい。出てきた料理が以前とはまるで違ってしまっている事に、悲しげな表情を見せる人もいる。


「もうやってらんねぇっ!」


 稲谷シェフがやって来て一週間も経たない内に、仕込み作業中の健ちゃんが突然叫び、飛び出して行ってしまった。慌てて悟さんが後を追ったけれど、健ちゃんは二度と戻ってくる事はなかった。


「健は俺が誘って連れてきたんだよ。悪い事したよな」


 休憩中、悟さんはいつものように火の点いていない煙草をもてあそびながら、溜め息交じりに言った。悟さんがここまで落ち込んだ姿を見せるのは、初めての事だった。


「前のホテル時代の後輩だったんだ。……って言ってもあいつは一回料理人辞めてたんだけど、『フィオーレ』が始まるから一緒にやらないかって声掛けたら、また戻って来てさ」


 『ラ・ルナ・エッド・イル・ソーレ』仕込みの『フィオーレ』の仕事は、ホテル時代とはまた違った大変さがあったけど、健ちゃんにとってもやりがいがあったらしい。

「結構始まってすぐの頃だったかな? あいつの作った前菜を滅茶苦茶褒めてくれたお客さんがいて、あいつ、俺、ようやく客の顔が見えるようになった気がしますなんて一丁前に喜んでさ」

「あー、それ、私も覚えてますよ」


 それぞれが持ち場に分かれ、完成品の見えない部品工場のような仕事をしていたホテル時代と異なり、『フィオーレ』は客との距離が近いのだと、あの寡黙な健ちゃんが私達にまで熱弁を繰り広げたのだ。

 興奮して喜びを露わにする健ちゃんを、高杉シェフや悟さんは鼻で笑い飛ばし、みんなでおもちゃみたいにいじり倒した。物凄く忙しい頃だったけど、あの時だけはキラキラした多幸感みたいな雰囲気でキッチンが満たされた。

 まだまだ店としての方針もかっちりとは決まり切っていなくて、誰もが手探り状態だったけど、あの出来事をきっかけに手応えみたいなものが少しずつ明確になっていったようにも思える。

 そんな健ちゃんだからこそ、、稲谷シェフのやり方にはついて行けなくなってしまったのだろう。


「まぁ、高杉シェフもどう考えたってやり過ぎてたからな。ぶっちゃけクビにされても仕方ないんだけど」

「だとしても、稲谷さんは駄目ですよ。だったら悟さんをシェフにすれば良かったのに。それなら健ちゃんだって辞めなくて良かったのに」

「俺がシェフ? あの社長の下でやるのはゴメンしとくよ」


 煙草をケースに戻すと、悟さんは苦笑いして立ち去った。

 高杉シェフを追い出して、あの二代目の金持ち社長がやりたかったのって、これなの?

 信じられない思いでいっぱいだった。明らかに料理の質は下がり、お客の満足度も低下している。店の経営状態が悪かったとはいえ、こんな料理ではすぐに客離れが起きてしまうんじゃないか。お客が入らなくなったら、そもそも経営どころの話ではないんじゃないか。。

 私は彼に問い質したい気持ちでいっぱいだった。恨めしい思いが態度に出てしまっているのか、彼は逆に私を避けているようにすら思えた。

 毎日のように遅くまで仕事が続き、会えない期間はどんどん新記録を更新した。決死の思いで送ったメールの返事が深夜になる事もざらだった。


『ごめん、今から帰る』


 深夜に一人、部屋で布団に包まって鬱々と過ごす私は、メールが届いた時間に驚き、そのまま自分の会いたい気持ちをぐっと我慢して飲み込むのだった。

 でも、本当に?

 本当にこんなに遅くまで、仕事をしているというのだろうか。仕事をしているフリをしているだけで、実は自宅に帰って頃合を見てメールを送っているだけじゃ。

 忙しいのはわかるけど、彼は平気なのかな。私はこんなに苦しいのに。

 一人になると、どんどん悪い方向にばかり考えてしまう。

 やっぱり私は駄目だ。

 彼と一緒にいないと。彼を近くに感じていないと、どんどん駄目になってしまう。

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