陽
*
毎日、毎日、連日続く大忙しのバイキングは、俺にとってはわりかし苦痛にはならなかった。
何よりも平日は毎日有希さんに会える。ランチタイムは最初から最後まで料理の補充とバッシングでてんやわんやだけど、忙しいからこそ会話が増えたり、力を合わせて乗り越えなきゃならない場面も増える。
「陽君、ウェイティングって次何人?」
「二、二、四で、その後八人グループが入ってる!」
「りーちゃんに奥の席八人用に取っといてってお願いしてくれる?」
「オッケー。料理の方も一通りコールしておくよう乃愛に声掛けとく」
業務上のやり取りとはいえ、長い付き合いの有希さんとは少ない言葉でも以心伝心で繋がっているのがわかる。そんな小さな出来事の一つ一つに、喜びを感じてしまう。
「ちょっと陽君、有希っぺばっかり見てないでこっちも手伝ってよ!」
なんて琴ちゃんに小言を言われる事も少なくないけれど。
俺にとって、大学生になって三度目の夏休みは忙しないけれどそれなりに充実もしていて、特に大きな不満を抱く事もなく、平和な毎日を過ごしていた。当たり前のように、今日と同じ一日が明日も続いていくのだと、信じて疑いもしなかった。
キッチンから高杉シェフの姿が消えたのは、八月に入って間もない頃だった。
余りにも突然に、シェフは『フィオーレ』を辞めてしまった。
「クビになったみたいよ」
「調理場で社長と口論になったとか」
琴ちゃんや有希さんからはまことしやかな噂を聞かされた。乃愛に問い質したところで、乃愛も力なく首を振るばかりだった。
思い起こせば、ここ数日、店には不穏な空気が流れていた。
見たことのない男が店に張り付くようになったのも、シェフがいなくなる少し前からだった。
男性はサービスに手を差し伸べる訳でもなく、ただ影のようにじっと息を潜めて店内の様子を観察し、ランチタイムが終わると久坂マネージャーと会話を交わし、時にはキッチンでシェフと難しい顔で向き合っている事もあった。シェフの姿の見えない所で、悟さんや健ちゃんを捕まえて話していた事もある。
「あれって、誰?」
「社長だって」
「社長?」
「そうよ。なんか感じ悪いわよね」
琴ちゃんはそう言って顔をしかめた。
「社長って、あんなに若いんだな」
俺は情報通っぽい乃愛に聞いてみた。乃愛は久坂マネージャーやキッチンと仲が良い事もあって、誰よりも早く、そして詳しく情報を握っている事が多い。
「まだ三十代前半ぐらいじゃない? 自分じゃ何もできない癖に偉そうな顔して、私大っ嫌いなんだよね」
乃愛は口に出すのも嫌だといった様子だった。
俺はよく知らなかったが、『フィオーレ』は地元の中規模ゼネコンの子会社が運営していたらしい。その子会社の社長というのがさっきの男で、ゼネコンの次男坊なのだそうだ。長男がゼネコンの跡取りとしてめきめき頭角を現す一方、肩身の狭い次男坊の為に父親が作ってくれたのが『フィオーレ』だというのである。
社長とはいえ、基本的に店の事は高杉シェフと久坂マネージャーにまかせっきりで、これまではほとんど姿を現した事も無かった。その癖休みもなく働く久坂マネージャー達の給料を上げるでもなければ、人を増やしてくれる訳でもない。最低の人間だ、と乃愛は鼻息も荒い。
「でも、どうして今さら? バイキングが成功してるから?」
聞いてはみたものの、どうもそういう雰囲気には見えない。喜んだり、褒め称えたりというよりは、むしろ……。
乃愛は周囲を伺うと、ぐっと顔を近づけて、囁くような声で言った。
「逆よ。いっぱい客は入ってるけど、どうもうまく行ってないみたい。バイキングがっていうよりは、その前から悪かったんだけど」
「うまく行ってない? まさか。こんなに流行ってんのに」
「客は入ってるけど、働いてる人だって多いし。特に料理がヤバいみたい」
「ヤバいって?」
「原価。シェフ、結構無茶してるみたい。千八百円にしては、ちょっと良すぎるでしょ?」
言われてみれば、確かにと頷かざるを得ない。パスタで四品、ピッツァで二品の他、煮込み料理やらローストやらが三品、その他に冷製の料理二品とドルチェが三品、サラダ、ドリンクまで。よそのバイキングと比べてもだいぶ豪華だ。てっきり、高杉シェフの手腕によるものだとばかり思い込んでいたのだけど。
「元々原価率は高めだったみたいだけど、バイキングでだいぶやり過ぎちゃったみたいよ。本社も黙ってられなくなっちゃったみたい」
乃愛の口から語られる内情は初めて知る事実も多かった。これだけひいひい言いながら客数をこなしているにも関わらず、どうやら財政上は苦しい状況にあるようだ。
「って事は、もっと料理の原価下げろとか、人件費削れって話になるのかな?」
「そこまではわかんないけど。でもそういう話をする為に、毎日通ってるんだと思うけど」
乃愛の表情は冴えなかった。
そんな話を乃愛と交わしたのは、つい先日の事だ。バイキングが始まったのも突然だったけど、その真っ最中にシェフが辞めるなんて信じられなかった。
しかし、高杉シェフが去った翌々日には、新しいシェフがやって来た。
入れ替わりにやってきたシェフは、稲谷さんと言った。
「ま、皆さん、お手柔らかに。宜しくお願いします」
そう言って首を竦めるようにして挨拶する姿は、温厚そうに見受けられた。身長は俺よりも一回り小さかったけど、がっちりした体格。角ばった顔をしていて、実直な職人肌、という印象だった。
久坂マネージャーの説明によると、どこかのシティホテルで料理長を務めていたのだという。
ところがどっこい、この稲谷シェフがなかなかの曲者だった。
オープン前の準備をしていると、ビュッフェ台に料理を並べていた有希さんと琴ちゃん、モモちゃんの三人が、何やら騒いでいる。
「どうしたの?」
二人の肩口から覗き込んだ俺の目に映ったのは、明らかに場違いな料理だった。
大きな白い器に広がる真っ赤なソースと、そこに浮かぶ小さな白い欠片。
「何これ? チリソースじゃん」
「そう! びっくりでしょ!」
いつもは控え目な有希さんが、頓狂な声をあげる。それだけ衝撃だった。
「チリソース風とかじゃなくて、普通に中華料理なの?」
「そうでしょ? こんなのイタリアンじゃないよ!」
「しかも海老じゃなくてイカって、なんかケチ臭いよねぇ」
あまりの驚きに目を見張っていると、のっそりと大きな身体を揺らして健ちゃんがやって来た。その手に乗っているのは、どこからどう見ても卵チャーハンだ。
「……これ、シェフが持ってけって」
「チャーハンじゃん! マジで?」
「シェフ、元々中華出身らしいんだ。イタリアンは、前に働いてたホテルのカフェでちょっとやってただけだって」
開いた口が塞がらないとはこの事だ。
稲谷シェフの登場と共に、バイキングの内容は一気に衣替えとなった。高杉シェフが調理していた温かい料理は稲谷シェフのチャーハン・イカチリ・冷凍のポテトフライに代わり、パスタは二品、ピッツァは一品に減少。冷製の前菜類も無くなり、サラダだけになった。更に、ドリンクも別料金になる始末。
「いくらなんでも、急にやり過ぎだよね」
「ヤバいよね」
「ほぼ炭水化物しかないし」
開店を前に、店内至る所に貼られた『サマーバイキング』のPOPを剥がし、代わりに久坂マネージャーがパソコンで急ごしらえで作った『中華&イタリアンバイキング』のPOPを貼り直した。地元の印刷会社に作らせたという前のPOPに比べると新しいPOPはいかにも貧弱で手作り感に溢れ、せっかく有希さんと二人で作業しているというのに、さっぱり心は晴れなかった。
オープンしてみると、最初のうちこそ思いのほか違和感なく受け入れられたようだった。客の方も新規の人が多かったようで、「これが話題の『フィオーレ』のバイキングか」と気持ちが浮き上がっているのが見てとれた。
初見では「あ、珍しい。ご飯ものがある」なんて喜んでいたリピーターもいたようだが、やはり時間が経つに連れて、目に見えて不満そうな顔が目立つようになった。
なんといっても、あまりにも料理の補充が遅い。
「申し訳ございません。ただいま準備しておりますので、今しばらくお待ちいただけますか?」
「さっきも同じ事言われたわよ! もう十分以上経ってるのに、どうなってるの?」
「申し訳ございません」
平謝りを繰り返す有希さんを見て、俺の堪忍袋も流石に切れそうになる。
「駄目だ俺、ちょっと文句言ってくる!」
「陽君、ちょっと落ち着いて。あたしが言ってみるから。稲谷シェフ、すみません。イカチリまだですか?」
「またかぁ? あのな、何度も言わせるな。イカチリじゃない。ガンソーピンインって言うんだ」
俺を制してお伺いを立てた琴ちゃんに対し、稲谷シェフは上から見下すような口調で押さえつけるように言う。
「他の料理はまだあるんだろ? ちゃんとまんべんなく食って貰うには、補充なんてほどほどでいいんだよ。ポテトでも食わしとけ」
ホールの側では再三客から急かされているというのに、どこ吹く風だ。
「悟ちゃん、ソースも少しでいいぞ。連中、どうせ味なんてわかりゃしねえんだ。量さえ食えりゃそれでいいんだから、パスタに塩味だけしっかりつけときゃいいよ」
「バベーネ」
「その変な返事もやめろ。ここは日本なんだから、日本語を喋るんだ」
「……うす」
黙々とフライパンを操る悟さんは、明らかに不本意そうだった。
「陽君、さっきはごめんね。ありがとう。お客さん、諦めて帰ったみたいだからもう大丈夫」
戻って来た有希さんが、明らかにそれとわかる作り笑いで俺に告げる。
今まで感じた事のないどんよりとした雲のようなものが、店中に漂っているように感じられた。
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