乃愛
*
「びっくりしたね」
私が言うと、彼は不思議そうな顔をした。
「だって、疑われちゃうかもしれないじゃない。休みの日に二人で何してるんだって」
「別に疑われるような事はしてないだろう。至って真面目に仕事しているだけなんだから」
彼はパソコンの画面から目を離しもせずに言う。私が唇を尖らした事にすら、気付いていそうにもない。
確かに、決して見つかって困るような事はしていない。私は来て早々に彼に渡されたバインダーを手に、消耗品や在庫やらを数えて回っていただけだった。彼はずっと、パソコンとにらめっこ。私達は仕事をしているだけで、いかがわしい事なんて何一つない。
彼の心にはスイッチが付いているんだと思う。仕事とプライベートをきっちり分けられる高性能スイッチ。一度仕事にカチリと切り替えてしまえば、プライベートを混同する事は絶対にない。だから仕事中に私に対しての愛情を覗かせるような事は決してない。便利なスイッチだ。
私のスイッチはあんまり性能が良くないから、仕事中だろうがなんだろうが彼の存在を意識してしまう。出来るだけ彼と話したいし、彼の近くにいたいと思う。仕事で彼から褒められれば、とっても嬉しくなる。だからこうして休みの日に二人だけで仕事なんて言われれば、当然何かしら期待してしまう。いつもは車の中でしか交わさないような甘い言葉や態度を、ほんの少しでも振りまいてくれるんじゃないか、なんて。
だから一向にそんな様子を微塵も見せてくれない彼に対して、苛立ちを感じてしまったりもする。でもこれは、ただの我儘だ。彼にぶつけて良いような感情ではない。我慢、我慢。
そうして私はバインダーに視線を落とし、数える作業に集中しようとした。次は爪楊枝。カウンターにある他、確か休憩室の方にもストックがあったかな、なんて思い出しながら。
それにしても細かい。途中お昼――彼がナシゴレンを作ってくれた! ――を挟んだ以外はずっと続けているのに、まだ半分ぐらいしか進んでいない。後の方のページを見ると、キッチンで使うような消耗品やら食材まで含まれている。
「六月の半期決算までに、ある程度の数字を掴んでおきたくてね」
という話だったけれど、ずいぶん細かいところまで確認するものだ。キッチンは悟さんあたりが自分でやっていそうなものだけど。
今まで一年以上働いてきて月ごとや四半期ごとの棚卸しも手伝ったりしてきたけど、ここまで細かい数を数えるのは初めてだった。訝しくは思いつつも、私は彼に命じられるままに仕事を進めた。
「陽って、ああやって時々鈴木さんや琴ちゃんと出かけたりしてるのかな?」
ようやく集中しかけた頃、彼が唐突に質問してきた。
「滅多にないんじゃない? 今まで聞いた事ないし。今日が初めてとかだと思うけど」
「ふぅん。あの人達も結構遊んでいたりするんだね」
相変わらずパソコンに視線を落としたまま、大して興味も無さそうに彼は言った。私の性能がいまいちなスイッチが、再びオンとオフの境目を見失う。
遊んでいるという言葉の意味がわからず一瞬考えたけど、有希さんや琴ちゃんが大学生の若い男の子と一緒に出掛けた事を指しているのだと気付いた。一般的な主婦の感覚で考えたら、遊んでいると言えなくもないのかもしれない。とはいえ、「あなたが言うの?」なんて疑問が浮かんで笑えてしまう。彼が私にしている事に比べたら、三人で食事に出かけるぐらい文字通り子どもの遊びに等しいでしょうに。
いつもの車の中ででもあれば口に出していたろうけど、今の仕事モードの彼に言うのは憚られた。ところが彼は妙に饒舌になって、
「そういえば……大学で陽には会ってるの?」
思い出したように質問を重ねる。
「うん。大体同じ授業受けてるし。どうして?」
「いや、あいついまだに平日も昼間から入れますって言って、結構バイト入ってくれてるだろ? その割に、乃愛はほとんど週末と夜だけじゃないか。同じ大学、同じ学科に通ってるのに、どうしてそう差があるのかな、って不思議に思っただけなんだ。陽のやつ、ちゃんと学校行ってるのかなと思って」
「逆よ、逆。陽君は私と違って一年と二年でだいぶ真面目に頑張ってたから、もうほとんど大学行かなくてもいいの。大学なんて自分でカリキュラム選べるのに、高校生かっていうぐらい朝から晩までびっちり授業入れてたもん。もう必修科目だけ出ればいいぐらいに単位取ってるんじゃないかな?」
「逆に言うと、乃愛はそれだけサボってたって事だな」
「誰のせいよ」
私はそう言って、口を尖らせた。彼はようやく私の方を向くと、鼻で笑った。
『フィオーレ』は昨年の春、私が大学二年生になった年にオープンしたばかり。私はオープニングスタッフとして立ち上げからアルバイトに参加していた。
そうして間もなく――ゴールデンウィークを過ぎる頃には、彼との関係が始まっていた。
関係の始まりとともに、私の生活の中心は彼と『フィオーレ』に変わってしまった。大学をないがしろにしてきたわけじゃないけれど、熱心でなかったのは確かだ。真面目に大学に通い続けた陽君との差を、三年になってからの授業量が如実に現していた。
「オープンからずっと、店の事で大変な目に遭わせたのは認めるよ。でも、それ以外は本人の自由意志のはずだけどなぁ」
それ以外、が何を指すかは明白だ。
「そんな言い方ひどい。自分が誘った癖に」
「あれ、僕のせいにする? 半分は認める。でも、半分は乃愛の意志だろう?」
言葉とは裏腹に、爽やかな笑みを浮かべる彼。否定できないのが悔しい。
でも、仕事中にこんな話が出来るのは楽しかった。
「陽君がランチに来るのだって、自由でしょう?」
「自由……ああ、鈴木さんの事? 意外だよね。まさかああいう人がタイプだなんて」
「陽君熱いから、ああいう落ち着いた人の方がちょうどいいのかもね」
正直私には、有希さんの魅力はよくわからない。綺麗な人だな、とは思う。でもそれは「結婚して子どももいる割りに」とか「年の割りに」という枕詞無しには語れない綺麗さだ。大学にだってもっと可愛い女の子は沢山いる。どうしてわざわざ。
「本気なのかな?」
「さぁ? 本気なんじゃない? 気になるの?」
彼を有希さんに置き換えて想像してしまって、答えが上の空になる。
彼もまた、結婚して子どももいる。私は、自分は、どうしてわざわざ。
「いや、この仕事だと好きだ付き合った別れたって、結構ナイーブなんだよ。仮にこじれて、どっちかが辞めるようになったりしたら困るな、と思ってさ。今、陽に抜けられたら困るからね」
「やめてよ。また誰か探してきてって言われても、もういないからね」
陽君は去年の夏休み後――私が『フィオーレ』のアルバイトに誘ったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます