*

「つーか陽君聞いてよ。有希っぺんちの旦那って、ホントに酷いんだよ。マジでありえないんだから」


 琴ちゃんが目を剥いて説明するところによると、先日二人で飲みに行った帰り、琴ちゃんの旦那さんの車で有希さんを家まで送ったのだが、一応連絡しておかないとうるさいという事で、有希さんの旦那さんへ電話したのだという。琴ちゃんは丁寧な口調で、


「遅くまですみませんでした。これから家までちゃんと送り届けます」


 と謝ったのだが、有希さんの旦那さんときたら、


「キミが琴ちゃんって人? 歳いくつなの? ねぇ、今度俺と一緒に飲もうよ。電話番号教えて」


 と返す刀で琴ちゃんを口説き始めたというのだ。


「ありえないでしょ? 有希っぺ隣にいるんだよ? しかも有希っぺの電話で喋ってんのに」


 憤然とする琴ちゃんだったが、俺はむしろ愕然としてしまった。有希さんの旦那さんがそんな女癖の悪い奴だなんて、信じられなかった。

 そこからは堰を切ったかのように、ひたすら有希さんの旦那さんの話が続いた。

 有希さんちは悠斗君という四歳の男の子一人を加えた三人家族だが、旦那さんからは月々の給料どころか、特に生活費も貰っていないらしい。家賃や車のローン等の固定費となるような部分に関しては旦那さんが払っているようだが、日々の食費や悠斗君の保育料等は、有希さん自身の給料でやりくりしているのだという。


「それでやっていけるの?」


 有希さんのバイトは定休日を除けば月曜日から金曜日までの四日間。しかも日中だけだ。給料にすればせいぜい六万円ぐらいだろう。多分、貰っている金額は学生の俺と同じか、むしろ少ないぐらいのはずだ。


「フィオーレだけだとキツいから、夜パチンコ屋のバイトもかけもちしてるの」

「パチンコ屋?」

「あれ、陽君には言ってなかった? 私、パチンコ屋の清掃バイトもしてるんだよ。夜十一時に閉店してから、一時間ぐらいでバーッて掃除するの。台とか椅子拭いたり、灰皿集めたり。時間は短いんだけど、時給いいんだよね」

「夜十一時って、悠斗君は?」

「旦那がいる時はお願いする時もあるけど、もう最近は慣れてきたから、寝てる間に行って来ちゃう。どうせいるかいないかわからないし」

「いるかいないかわからないって……」

「勝手にいつの間にか出てっちゃうんだって」


 琴ちゃんが補足する。


「いつの間にかって、何それ? なんか言い残してったりしないの? コンビニ行くとか、どこ行くとか」

「別に。鍵のジャラジャラっていう音と、ドアが閉まる音がするから、あ、出かけたんだなっていう感じ」

「夜に?」

「夜だろうが昼間だろうが、いつでも」


 さらりと言ってのける有希さんに、俺は開いた口が塞がらなかった。少なくとも俺が生まれ育ってきた環境からは想像も出来ない世界だ。我が家は父も母も夜出かけるという事はほとんど無かったし、あるとしてもせめて行先ぐらいは告げて行っただろう。夫婦がお互いの行動を把握していないなんて、とてもじゃないが信じられない。ましてや妻が深夜に仕事しに行くと知っていたら、子どもと一緒に残るのが当然じゃないか。


「でも、有希さんはちゃんと行先言わないと駄目なんでしょ?」

「うん。自分勝手なんだよね。すぐ男だって騒ぐの」


 自分勝手の域を超えているようにしか思えず、段々腹が立ってきた。

 有希さんは綺麗だから、心配になる気持ちはわからないでもない。それにしたって、自分が好き勝手やってる癖に有希さんだけ束縛するなんて、道理に適わない話だ。


「よくそれで、続いてるね」

「ホント。もう別れちゃえばいいのに」


 咄嗟につい口を突いて出た言葉に、琴ちゃんが追随する。俺に対する援護射撃というより、心の底からそう思っている様子だ。


「ホントだよね」

 でも有希さんは他人事のように笑うばかりで、機嫌を損ねるでもなく、かといってその口から「別れる」という言葉が発せられる事も無かった。


「そもそも、どうしてそんな人と結婚したの? そういう人だってわかって結婚したの?」

「元々高校時代からの付き合いだったんだけど、社会人になってから一度は別れたんだよね。あ、この人とじゃ絶対に幸せになれないなって思ったから。なのにあの人、いつの間にか家に来たりしててさ。その頃は実家暮らしだったから、うちの親も普通に受け入れて、私が仕事終わって帰るとちゃっかり普通にご飯食べたりしてたの。そうこうしている内に悠斗が出来たってわかって、じゃあ、結婚するしかないかって」


 ポコリ、とお腹が膨らんだような仕草を見せる有希さん。


「有希さん、出来ちゃった結婚だったの?」

「まあね」


 聞けば聞くほど、眩暈を覚える。幸せになれないとわかっていたのに結婚するなんて。その前に、別れたはずなのに勝手に相手の実家に押しかけてくる旦那さんも旦那さんだ。でもその状況で妊娠してしまったという事は、有希さんも受け入れてしまっていた訳で……。

 有希さんの結婚生活は、俺の目から見れば決して幸せではないのではないかと思えてしまう。それでも有希さんが不満を唱えようとしないのは、きっと悠斗君がいるからなのだろう。結婚に踏み切ったのも、今も夫婦関係を続けているのも。

 せめてあと五年前、悠斗君が生まれる前に俺と有希さんが出会えていたなら。きっと俺は今の旦那さんとの交際を全力で阻止したに違いないのに――なんて悔やんではみたものも、頭の中で有希さんとの歳の差を計算して愕然とする。

五年前という事は有希さんは二十四歳で、俺はまだ十六歳だ。十六歳の頃なんて、まだ中学を出たばかりで、ほぼ子ども同然の頼りないガキだった。あの当時の俺が有希さんと巡り合えたとして、今のような強い気持ちで有希さんを想う事が出来ただろうか。有希さんと旦那さんとの交際に割って入る程、男としての魅力や自覚があったとは到底思えない。

 せめて有希さんが生まれてくるのがあと五年遅かったなら。今の二十歳の俺と、二十四歳の有希さんが巡り合う事が出来たなら。それだったらまだ、どうにかなったかもしれないのに。

 そんな不毛な空想を膨らませる程に、現実の厳しさが身に染みてくる。どれだけたらればを繰り返した所で、現状が変わる訳ではない。二十歳で学生の俺と、二十九歳で旦那と子どもがいる有希さんは、動かしがたい現実なのだ。


「それに比べたら、琴んちは仲良いもんね」

「ホンット、この間も旦那と話したんだよね。ウチらって、いっつも一緒だよねって」


 話は自然と琴ちゃん夫婦ののろけ話へと移っていったが、俺の頭はずっと有希さんの事でいっぱいだった。

 もっと違うタイミングで出会う事ができていたら、俺達の関係も今よりは少しは違っていたかもしれないなのに。

 有希さんが幸せで順風満帆というわけではないと知れば知るほど、運命の不条理さが憎たらしくて、胃の辺りが締め付けられるようだった。

 結局『マンマミーヤ』には十四時近くまで長居してしまい、ラストオーダーを告げる店員さんの声で俺達は慌てて席を立った。

また三人で歩いて『フィオーレ』の駐車場へと戻る。店の前を通りかかると、ふと、有希さんが足を止めた。


「あれ。久坂さんがいる」

「ホントだ」


 定休日のはずの店内に久坂マネージャーの姿があった。驚く事に、隣には乃愛もいる。手を振る俺達に気づいて、マネージャーと乃愛も笑みを返す。


「今日、休みじゃなかったんですか?」


 掃き出し窓を開けた久坂マネージャーに、琴ちゃんが問い掛けた。


「ああ、店は休みなんだけど。ちょっと在庫の確認しなくちゃならなくて。昨日の夜、急遽乃愛ちゃんにもお願いして来てもらったんだ」

「何なに、もしかして陽君、有希さんと出かけてきたの? 良かったじゃん」


 俺の有希さんに対する想いは当然乃愛にも筒抜けで、琴ちゃんの存在を知りながらそんな言い方をしてくる。琴ちゃんといい、よくもまぁ女っていうのは人の色恋沙汰を茶化したがるものだ。


「えー、仕事あるんなら私達にも声掛けてくれれば良かったのに」

「ね。水曜日なら働けますよー」

「そうなの? でもほら、今日は用事があるって聞いてたから遠慮しちゃったよ。じゃあ、今度はお願いしようかな」

「是非!」

「やったぁ!」


 手を叩いて喜ぶ有希さんと琴ちゃんは、まるで姉妹のようだった。

 俺達は久坂マネージャーと乃愛に分かれを告げ、駐車場へと歩いた。すると、


「じゃ、あたしは帰るね」


 と琴ちゃんが言う。思わずドキッとしたものの、


「何ようそれ、私も帰るから」


 有希さんの言葉で、俺はまんまと琴ちゃんに嵌められた事に気づいた。てっきり有希さんだけ残るのかと思わされた。


「なぁに? いいじゃん。二人でどっかお出かけして来たら?」

「そういう訳にも行かないでしょ。これから悠斗のお迎え行かなくちゃならないし」

「なんだ残念だなぁ。せっかく有希っぺとデートだからって、貴重な休みにわざわざ来たのに。ねぇ?」


 琴ちゃんの笑顔はしてやったりとでも言いたげだ。肯定する訳にもいかず、かといって否定する事も出来ずに俺はただただ黙するばかりだった。

 勿論有希さんと二人きりになるなんて夢のような展開も、想像しなかった訳ではない。むしろ大いにしたと言っても良い。でもちゃんと、期待通りに行かない事も折り込み済だった。分不相応な期待を膨らませて勝手に傷つくほどには、俺は愚かにはなれなかった。


「じゃ、また明日ね。陽君は明後日か」

「じゃあ、またね」


 なんて割とあっさりと、その日は解散してしまった。琴ちゃんのヤツ、こういう時こそもうちょっと粘って欲しいのに。

 二人が車を出すのを見送った後、自転車を停めた店まで一人、引き返す。

そういえばと思い出してスマホを取り出した。結局、有希さんの連絡先すら聞けないままで終わってしまった。冷静に思い起こせば聞き出すタイミングは幾らでもあったのだと思うのだけど、変に俺の気持ちが大っぴらになってしまっている以上、かえって下心抜きとは言えない気がして、躊躇われてしまうのだ。ましてや相手は人妻だ。背徳感もある。そうは言っても、今日の様子だと有希さんの旦那もだいぶ好き勝手やっているようだから、俺に携帯を教えてくれるぐらいの事は大した問題でもなさそうだけど。

 俺は携帯をポケットにしまい、溜息を一つついた。

 目の前に『フィオーレ』がある。そういえば、久坂マネージャーと乃愛がいた。何をしていたのだろう? 寄ってみようか。

 そんな気が起きたのも一瞬で、次の瞬間には自分のアパートへ向けて自転車を漕ぎだした。今日のところは一人で、有希さんの余韻でも噛み締める事にしよう。

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