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 アパートを出て『フィオーレ』に向けてクロスバイクを漕ぎ出すと、ふと、潮の香りが鼻先を掠めた。

 一般的には沿岸部の町としてのイメージが強いこの町も、実際に市街地から海辺へ出ようとすると十キロぐらいあって、普段の生活の中で海を感じる事はできない。それでも俺には、時折海の気配のようなものを感じる気がするのだった。

 内陸の町で生まれ育った俺が敏感なだけなのか。それともただの勘違いか。

いずれにせよ降り注ぐ柔らかな日差しも、木々を揺らす優しい風も、生まれた町とはどこか違って感じる全てが、俺にとっては愛おしい。有希さんが生まれ育ったこの町に俺自身が溶け込んで行くようで、何もかもが心地良く感じられた。

ヘアピンカーブがある急坂を下り、街外れを流れる新川の橋を越えると、背の高い建物がどんどん増える。立ち並ぶビルの中に老朽化が進んだ市役所や、アーチ型の大屋根が象徴的な文化センターが見えて来たら、『フィオーレ』はもう目の前だ。

 公共施設が密集した地域だけあって、『フィオーレ』の周辺は緑地帯や道路がゆったりと整備されていた。店の正面は銀杏並木とベンチが並ぶ遊歩道に面していて、近隣の住人や努め人の憩いの場となっている。ゆっくりとポーズを決めるお爺さんはきっと、太極拳でもやっているのだろう。ベンチで休む飼い主の足元で、トイプードルが気持ちよさそうにうたた寝している。

滑り込むように裏手の搬入口に自転車を停めると、俺はそのまま店に背を向けた。。

今日水曜日は『フィオーレ』の定休日。俺が目指すのは、店から五十メートルほど離れた駐車場だった。

「あ、来た来た!」

 ブンブンと音がしそうなぐらい大きく手を振るのは琴ちゃんだ。有希さんもその隣で、控え目に小さく手を振ってくれている。

店にはみんな私服で通勤しているから、私服は見慣れていない訳ではない。でもロングスカートなんて穿いちゃって、いつもよりメイクも濃いように見える琴ちゃんに比べ、有希さんは普段通りのジーンズに長袖のカットソーといった素っ気ない服装だった。

 ちょっと拍子抜けした感は否めないけれど、その飾らなさが有希さんによく似合っているようで、俺はほっと胸を撫で下ろした。


「車、大丈夫だったの?」

「うん。昨日久坂マネージャーに言っておいたし。別に言わなくても平気なんだけどね」


 市街地へのアクセスには便の良い『フィオーレ』の駐車場を、琴ちゃんや有希さんは度々利用させて貰っているらしい。


「陽君こそ学校大丈夫だったの? 平日の真昼間っからふらふらしちゃって、学生さんは気楽だね」

「よく言うよ。自分だって子ども保育所に預けて来たんだろ」

「たまには息抜きも必要だからね。子育てって大変なんだから。じゃあ、行こっか。あ、有希っぺは陽君と手繋いで行ってもいいからね」

「琴ぉ。どうしてそういう事ばっかり言うかなぁ。ねぇ?」


 有希さんは同意を求めるように俺を見るものの、返答に窮してしまう。いやまぁ、有希さんと手を繋いで歩けるのなら俺的には願ったり叶ったりなんだけど……なんて口に出して言えるはずもなく。


「陽君、何照れてんのよ。もっとグイグイ行かないと駄目なんだからね。有希っぺは押しに弱いんだから」

「押して効くタイプには見えないけど」

「わかったわかった。でも、イチャイチャするのは私がいなくなってからにしてね」

「するわけないだろ」


 いつものように俺と琴ちゃんが軽口を叩き合い、隣で有希さんはニコニコと微笑む。違っているのは場所が屋外で、みんな私服だって事。

 こうして自分より十歳近く年上の女性達と一緒に歩いているのを傍目から見たらどう思われるのだろうかと気になったけど、それも最初の内だけだった。意外と違和感がないのかもしれない。

 普段は大学の構内でもない限り徒歩で移動する機会なんてほとんどないものの、こうして散歩するのも悪くないと思えた。銀杏の葉も青々と生い茂り、風も優しい。二人は「日焼けしちゃうね」なんて嫌がったけど、有希さんの透き通るような肌を見る限り、日焼けとは無縁にしか見えなかった。

 歩き出して十分も経たないうちに、『マンマミーヤ』の建物が見えてきた。白い漆喰壁に俺ンジ色の洋風瓦。窓枠はブラシで手塗りしたような空色で、いかにも地中海をイメージしたと言わんばかりの建物だ。

 混雑を回避するつもりで十二時前に着いたにも関わらず、既に満席に近い様子だった。『フィオーレ』よりもだいぶ広く、ざっと見ただけで五十テーブル近くある。ファミリーレストランにも負けない規模だ。

『マンマミーヤ』のウリは何と言っても巨大なパルミジャーノで、前菜のサラダの際にはチーズの乗った台車をゴロゴロと押して来て、客が望むだけ削ってサラダに載せてくれる。その後のパスタの際にもまた別なチーズの塊を運んできて、その中で熱々のパスタを和える。削りたてのチーズは風味も強く、味も濃い。このチーズを使った演出と味こそが、『マンマミーヤ』の人気の所以である。また、客前でピザ生地をくるくると回しながら焼き上げる焼き立てピッツァのパフォーマンスも評判だ。俺達は注文しなかったものの、チーズフォンデュのセットもある。

 シンプルな料理をウリにする『フィオーレ』とは対照的な店だ。高杉シェフは素材の味を重視するタイプだから、太くて柔らかいアスパラが入ったなんて言うと、軽くボイルしたものにワインヴィネガーの自家製ドレッシングをとろりとかけただけで提供したり、ほくほくのアーティチョークをささっとオムレツにして出したりする。美味しい素材をより美味しく食べられる調理以外には余計な手はかけないし、強い味付けも好まない。


「美味しいは美味しいけど、ちょっと濃いね。胃もたれしそう」

「今日はもう夕飯抜きでいいや」


 琴ちゃんと有希さんの感想はいまいちだったが、平日のランチタイムだというのに店内はいっぱいだった。チーズを主体とした強い味付けとはいえ、若い子だけに人気という訳でもない。客層は平日という事もあり、主婦層や年配の人も多いようだ。『フィオーレ』に負けず劣らず、といった混雑ぶりだった。

 目の前でチーズをゴリゴリ削るのは簡単そうだけどそれなりに目を惹くので、演出面ではむしろ『マンマミーヤ』の方が上かもしれない。でも手前味噌とはいえ、俺達の個人的な好みで言えば久坂マネージャー主体のしっとりと落ち着いたサービスの方が好ましく思える。

 そうしてああでもないこうでもないと言い合いながらデザートに突入した頃、思い出したように琴ちゃんが有希さんの服装に触れた。


「今日は旦那、家にいたの?」

「別にいたわけじゃないけど、いちいち何か言われるのも面倒だから」


 二人の会話に頭の中で「?」が点灯する。旦那さんがいるとかいないとか、それが有希さんの服装とどう関係するというんだろう?

 俺の疑問を察したのか、有希さんは珍しく口を尖らして、言った。


「うるさいんだよね、いちいち。どこ行くんだとか、誰と行くんだとか」

「それ、あれでしょ? 自分がそういう事してるから、有希っぺの事も疑ってるんでしょ?」

「多分ね。別にやましい事なんてするはずないのにね」


 と同意を求められても、暗に俺の気持ちに応える気はないと言われたようで、複雑な気分になってしまう。


「そんなにうるさいの?」

「うるさいなんてもんじゃないの。だからほら、今日だってこれ一枚でしょう? いつもよりオシャレしてるなんて思ったら、男に会いに行くんだべ、なんてしつこいんだから」


 つまりジーンズにカットソーというシンプルな服装は、有希さんにとっては不本意なものらしい。それでもなおそうせざるを得ないほど、旦那さんの束縛が激しいというのだ。

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