乃愛
*
国道沿いの停留所でバスを降り、建物の間を抜けて通りを一本隔てた緑地帯沿いに、『フィオーレ』はある。
冬の間すっかり葉を落としていたはずの銀杏は、いつの間にか小さな青々とした葉でいっぱいになっていた。日差しが柔らいだ夕方の時間帯は風が心地良くて、所々に置かれたベンチに人影が目立つ。下校時間に重なるせいか、いつもの見慣れた高校生のカップルが常連になっているのはご愛嬌だ。去年の秋頃はよそよそしく並んで歩くだけだったのに、雪が積もり始める頃には手を繋ぐようになり、最近ではああして「もっと一緒にいたい」とでも言うかのようにベンチで身を寄せ合うようになった。ひと目も気にせず寄り添える二人の若さが微笑ましくもあり、ちょっぴり羨ましくもある。
ランチから働こうとする陽君とは異なり、私はほとんどがディナーのみの勤務だ。陽君は大学から離れたこの場所まで自転車で来ているけれど、私はバスで通勤している。自転車も持っていない訳ではないけど、大学に入ってからあれに跨るのはなんだか恥ずかしくなった。自転車はせいぜい高校生で卒業して、結婚して子供が生まれた頃に再び乗り始める乗り物なんだと思う。
仕事が終わった後の都合もある。真っ直ぐ帰るのであれば自転車も良いかもしれないけれど、ほとんどの場合は彼に送ってもらう事になる。その場合、自転車を店に置きっぱなしにする訳にも行かず、逆に邪魔になってしまう。
そんな事情はさておくとしても、単純にこの時間の町を歩くのが好きだった。世の中のありとあらゆるものが、もうすぐ訪れる夜に向かって一斉に動き始める騒々しさ。夜という怪物から逃れようとでもするように、人も車も家路を急ぐ。そうして迎える静かな夜は――私と彼の時間だ。
「おはようございます!」
キッチンの扉を開けると、もわっと熱気に襲われた。裏腹に、空気は凜と張りつめ、静まり返っている。調理場はすでに臨戦態勢だ。
「お、珍しいねぇ。最近毎日じゃないか」
「何言ってるんですか。シェフが明日も来い、毎日来いって言ったんじゃないですか」
「言ったけど、水着でって条件も付けたはずだぞ」
「またまたぁ。いるだけで嬉しい癖に」
「しょうがねえだろ。久坂とばっかり顔合わせてたら気が滅入っちまう。今日も忙しくなりそうだから、よろしくな」
軽口を叩けるぐらいには、高杉シェフの気分は上々っぽい。あまり私に対して怒りの矛先が向けられる事はないにせよ、機嫌は良いに限る。
「おはよう。早かったな」
声を聞きつけたのか、陽君がホールから顔を出した。
「環境工学の授業、レポートだけだったからさ。……マネージャーは?」
「今カウンターやってる。今日六時と七時、七時半から予約四件な。一組はアジア生命さんのグループ。後は新規。ママさんグループとカップル」
早速陽君と打ち合わせを始めると、
「今日は陽と乃愛ちゃんの二人?」
と副料理長の悟さんが確認してきた。
「はい。あとはマネージャーと、三人体制です」
「じゃあ大丈夫だな」
苦笑する悟さんに、私と陽君も顔を見合わせ、苦笑い。
平日のディナーに入ってくれていた恵美さんが辞めたのは、つい先日の事だった。
恵美さんは駅前の飲み屋とかけもちしているフリーターで、サービス業はお手の物なんだけど、どうしてもふとした時に、夜の仕事特有の馴れ馴れしさというか、粗さが目立つ人だった。
それはそれで恵美さんの個性としてホールマネージャーの彼も大目に見ていたのだけど、どうしてもシェフとはソリが合わなかった。
「あいつよぉ、俺の作った料理を「はぁい、持って行きまぁす」なんてチャラチャラ持って行くんだよな。アンティパストを「アンディ」なんて外人みたいに呼ぶしよ。化粧も香水もぷんぷん臭いし。ウチみたいなレストランには、ああいう品の無いお姉ちゃんは似合わないと思うんだよ」
シェフは事ある度にそう繰り返した。職人肌な人なので、一度気になると容赦も遠慮もしない。客あしらいには慣れていると見えてそれとなく受け流していた恵美さんも、先日ネイルの件でシェフと口論になり、辞めてしまった。
ディナーに出勤できるアルバイトは元々少なかったのに、恵美さんも辞めてしまい、今や私と陽君だけになってしまった。三年に入り大学がそう忙しくないのも幸いして、私と陽君は毎日のようにシフトに入らざるを得ない状況にある。
『フィオーレ』のディナーはランチほど混雑はしないけれど、平日でも満席になるのが当たり前の人気店だ。メニューはアラカルトが基本だけど、お任せのコースもある。中でも一番安い二千五百円のミニコースが人気だ。前菜というよりは突出しに近いストウッツィキーノと、パスタかピッツァからチョイスするプリモ・ピアット、最後にドルチェとドリンクという簡単な構成なのだけど、一般のお客さんからすると沢山のアラカルトメニューの中からアンティ・プリモ・セコンドと選んで自分でコースを組み立てるのは馴染みがないらしく、大半は決められたコースに流れる。若いカップルや主婦のみの女子会グループのほとんどは、そのパターンだ。
時に、一方では手慣れたお客さんが来る事も珍しくない。そんな場合には彼が対応するようになる。
「季節ものですと、ヒラマサが良い時期ですね。今日はカルパッチョにしてお出ししています。トリッパの煮込みには春キャベツを使っています。茨城県産の甘味の強いキャベツで、トリッパのコクとも良く合いますよ。上に半熟卵をのせてますので、それを崩しながら召し上がっていただくとより一層旨味が引き立ちます」
「じゃあ、それをいただくわ。ワインはどうすればいいかしら? おすすめはある?」
「そうですね。カルパッチョとトリッパ、どちらにも合うものとなると、まずはスプマンテで始められてはいかがでしょうか? グラニャーノという赤の微発泡性ワインがよろしいと思いますが」
彼は料理からワインまで幅広い知識を持ち、お客の要望を引き出しながらベストな選択を促してしまう。爽やかな笑顔で、物腰低く、それでいて洗練を感じさせる美しい所作で相対する様は、見ていて飽きる事がない。
「カルパッチョとトリッパ。スプマンテ先に行くから、その後で」
「バベーネ」
ワインのボトルとグラスを手に、春風のような爽やかさで去って行く彼に、私とキッチンは同時に答えた。
「あんにゃろう、トリッパ売ってくれって頼んだら、マジでガンガン売りやがる」
キッチンの副料理長である悟さんが苦笑する。実はトリッパの煮込みはそろそろ消費期限が迫っていた。火を通すものなのである程度は日持ちがするが、永遠というわけにもいかない。そこで出来るだけセールスするように、とディナーが始まる前に言われていたのだ。
ファストフード店とは違い、ご一緒にポテトはいかがですか、というノリで勧めたところで注文してくれるお客はほとんどいない。その点彼はいとも容易く、自然に注文をとってしまう。流石だ。
彼は氷を張ったワインクーラーとスプマンテのボトル、グラスをワゴンに載せて先ほどのテーブルへ。するするとスプマンテのホイルを剥がし、音もなくコルクを抜くと、グラスにワインを注いだ。淀みない動きで、はたから見ていてもいつ、どのタイミングでコルクが抜けたのかすらわからなかった。
私達もグラスワイン用のワインで抜栓の練習をしたりするけれど、やっぱり彼のように上手には出来ない。綺麗にホイルを剥けずボロボロになってしまったり、ひどい時にはコルクが折れてしまったりもする。とてもじゃないけど、客前で出来るようなレベルには至っていない。
ワインをサービスしている最中、彼の周りにはオーラでも張り巡らされたかのような緊張感が漂う。周囲の客も思わず手を止めて見惚れてしまうのに、彼と、実際にサービスを受けているテーブルのお客は極めてリラックスした表情で楽しんでいる。何度見ても、魔法みたいだった。
「陽君、アンティパストお願い」
彼がワインを注ぎ始めるタイミングを見計らって声を掛けると、陽君もまた、茫然と彼の抜栓に見とれていた。
「陽君」
もう一度声をかけて初めて、陽君は我に返った。
「あれ、スゲーよな。カッコイイよ」
独り言のように言い、クビを傾げながら料理の皿を運んでいく。
陽君の言葉に、私も思わず口元が緩んだ。
そうだよね。同じ男から見てもカッコイイに決まってるよね。
彼はカラカラと空のワゴンを押しながら、帰りがけに陽君に向かって何か笑顔で声を掛けた。タッチ交代とでも言うように。確かにその様子は、カッコ良かった。
ランチの方が圧倒的に忙しく、人手も掛かる。対してディナーは少し料金も上がる為、敷居も上がってしまうのか客数は減ってしまう。手間も掛かる。でも、私はディナーの時間が好きだった。慌しく客数をこなすよりも、落ち着いた雰囲気でしっとりとサービスする方が、彼の真価が発揮されているように思える。キッチンから作り出される料理も、パスタやピッツァが中心となるランチよりは手の込んだ素晴しい皿が増える。
『フィオーレ』と彼が光り輝くのは、間違いなくディナーだ。
「悟君、行くよ」
「バベーネ」
高杉シェフの合図で悟さんがソースの仕上げに入った。グリルでこんがりと焼き目がつけられた子羊がシェフの手で皿に盛られ、悟さんが鍋ごと差し出したバルサミコ酢のソースを万年筆でカリグラフィでもするみたいにするするっとデコレーションする。普段は下ネタと冗談ばかり言っているシェフだけど、こういう時はプロというか、まるで芸術家みたいな真剣な眼差しを見せる。空気と触れたソースから、甘さと酸味が入り混じった香りがふんわりと漂った。
最後に数種類の青味を載せて、緊張した空気を振り払うようにパンパン、と二度手を叩く。シェフ独特の出来上がりの合図だ。
「ペーコラあがったよ!」
悟さんの声を聞きつけて、彼がやって来た。二人前の子羊の皿を持とうとしたものの、ふと、私を見て口元を緩めた。
「乃愛ちゃん、行けそうだったら一緒に行こうか」
「はい!」
私は頷いて、彼に続いた。
「子羊のグリル、マデラとバルサミコ酢のソースでございます」
彼と合わせて客席の前で一礼、呼吸を合わせて同時に皿を置く。注文したご夫婦の顔が、ほころぶのがわかった。
こうして一人で十分できるサービスをわざわざ二人で行うのも、より特別感を演出するサービスの一つだ。
「パンのおかわりはいかがですか? チャバタがつい先ほど焼きたてですが」
彼は目線だけで私に下がるよう合図をした。ご夫婦は二人とも彼に意識を奪われているのを知りつつ、ゆっくりと一礼して、席を離れる。キッチンに戻ると、陽君が不服を唱えた。
「いいなぁ、俺もあれやってみたいのに。一回も誘われた事ないぜ」
「だって男女のカップルには、男女で行くのがルールだもん」
そう。男性には女性が、女性には男性がサービスするとベターというのが、彼の教えだった。もっとも今のように、余裕があり、且つメインのお皿を運ぶ時だけ、といった限定の用法だけど。
でも私は、勝手にそれだけが理由じゃないと思っている。
彼はきっと、私と二人でやりたいから、私を指名しているのだから。
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