陽
*
「オーダーお願いします!」
デシャップの乃愛に伝票を渡しつつ、並んだパスタの皿を手に取る。アラビアータとゴルゴンゾーラ。伝票を確認するまでもなく、四番テーブルのものだと即座に身体が反応する。
「陽君……あ」
キッチンを飛び出した瞬間、ドリンクカウンターの有希さんの救いを求めるような視線に気づいた……ものの、俺の手がパスタの皿で埋まっているのを見て、有希さんは残念そうに口を結んだ。
カウンターには完成したデザートの皿が並んで、運ばれるのを待つ渋滞状態だった。運んで貰えない事には次の皿に取り掛かれないので、困っているのだ。
俺は口パクで「すぐ行く」と伝えた。有希さんは笑顔を返してくれる。
急いでるのを悟られないよう、極力平静を装いながら四番テーブルに向かい、
「お待たせいたしました。サルシッチャ入りペンネアラビアータと磯海苔とゴルゴンゾーラのクリームソースでございます」
パスタを提供。一目散にドリンクカウンターにとって返す、が――
「十二番テーブルね。オッケー」
俺が運ぼうと思っていたデザートは、まさに今、琴ちゃんが持って行こうとするところだった。
「ざーんねん」
擦れ違い様、琴ちゃんは冷やかすように笑う。
「ありがとう。琴が持って行ってくれたよ」
抗議の目を向ける俺に、有希さんは見たそのままを報告した。畜生。せっかく有希さんにいい所を見せてやろうと思ったのに。
そう惜しむ間もなく、
「陽、八番オーダー」
「うぃっす」
キッチンから出てきた久坂マネージャーに促されて、俺は笑顔で客席を振り返った。
ランチタイムは戦争だ。
十一時半のオープンと同時にあっという間に客席はいっぱいになり、オーダーとサービス、バッシングで息つく暇もなくなる。十一時半から十四時半まで三時間のランチタイムの間に、十五個のテーブルは平均二回転半する。片づけた先からすぐに次の客を案内しなければならない。
僅か三時間に百人近い人数を迎えていれば、中には面倒は客もいて大変な思いをする事も少なくない。また、戦場と化したキッチンから罵声を浴びせられる事も、しょっちゅうだ。一日中立ちっぱなし、歩きっぱなしの仕事が続くし、レストランの仕事は辛い事ばかりだ。その一方で、それなりにやりがいもあったりする。
一緒に働いている仲間の阿吽の呼吸を感じられた時には、ゲームでコンボが決まったような爽快感が得られるし、常に客の先を読む必要があるから、狙い通りに進んだ時には強敵を倒したような達成感が得られる。
そろそろ食べ終わるだろうとキッチンに次の料理のコールを掛けたものの、肝心の客がなかなか食べ進まない。そうこうしている内にコールした料理が出来上がってしまい、どうしたものかと迷いながら運んでいくと――ちょうど他のスタッフが前の皿を下げるところだったり。そんな時は最高にドンピシャのタイミングで必殺技が決まったかのような気分だ。食べ終わって皿が下げられた次の瞬間に次の料理が供されるのだから、客もまた驚きの表情を見せる。そんな繰り返しが「素晴らしい店ね」というお褒めの言葉に繋がり、リピーターが生まれていく。
そんな楽しみもあるが――俺にとって一番の楽しみは、有希さんの存在だった。
鈴木有希さんは二十九歳。俺よりも十歳近く年上だ。基本的には日勤のみの為、ランチタイムでしか一緒に働く事はない。
元々は俺よりも先にこの店、『フィオーレ』で働いていた。初めてアルバイトとして入った当時、俺に色々と親切に教えてくれた――のは琴ちゃんこと新山琴恵さんで、有希さんはそれをちょっと距離を置いて見ている感じだった。
琴ちゃんは有希さんより一つ歳下の二十八歳。二人の子持ち。同じく日勤でランチタイムだけの勤務だった。有希さんと琴ちゃんはちょっとだけ有希さんが先に入ったけれど、ほぼ同時期に働き始めたのだという。齢が近い事もあって、仕事以外でも仲良くしているそうだ。
明るくサバサバした性格の琴ちゃんとは違って、有希さんは常に一歩引いて見えた。ランチタイムが過ぎてディナーまでのアイドルタイムに入ると、三人で話しながら片づけや夜の準備をする機会も多かったけれど、直接話すのは専ら俺と琴ちゃんで、俺と有希さんは琴ちゃんという通訳を介して会話するような、そんな関係だった。
……にも関わらず、俺は初めて見た時から有希さんに心を奪われてしまっていた。完全に、自分でも呆れるぐらいの一目惚れだった。大げさかもしれないけれど、有希さんを一目見た瞬間、この世に生まれて来たのはこの人と出会う為だったと確信に似た思いを抱く程の衝撃が、俺の胸を貫いた。
自分では隠していたつもりだけど、周囲から見ればバレバレだったらしい。入って間もない頃、なかなか直接話す機会が得られず、耐えかねて琴ちゃんにそれとなく有希さんの事を尋ねた途端、
「あの人? 駄目よ。有希っぺは結婚して子どももいるんだから」
と返す刀で釘を刺されてしまった。
その瞬間、頭の上に浮かんだ大きなハートが、一瞬にして粉々に砕け散る思いだった。
既婚者? まさか! しかも子どもまで!
俺が運命の人と見定めた相手は、既に他の男の妻だったのだ。
俺の恋はすぐさま破綻してしまったものの、そうは言っても一緒に働いていれば、すぐにまた想いは膨らむ一方だった。既婚者だろうが子どもがいようが、有希さんの魅力の前には些細な問題でしかないようにも思えてくるのだから、我ながら能天気と言う他なかった。
だから俺は他のみんなと同じようにサービスをこなしながらも、誰よりも有希さんのいるバーカウンターに意識を集中している。デザートやドリンクのコールを掛けるのは俺でありたいし、有希さんの作ったデザートやドリンクは誰よりも先に俺が運びたい。
「これ、オーダーよろしく」
「了解」
「持ってくね」
「ありがとう。お願い」
たった一言の言葉を交わす、ただそれだけで俺の気持ちは舞い上がるのだった。
琴ちゃんはそれを知った上で、お客として可愛い女の子がやってきたりすると、
「ほら、行ってきなよ。出会いのチャンス、チャンス」
なんて有希さんの目の前でわざわざ俺に接客を促したりする。
「何言ってんだよ。客は客だろ。そんないやらしい考えで働いてる訳じゃないし」
思わず顔中に全身の血が集まるのを感じながらも、平然としたフリをして接客に向かうのだが、そんな俺を琴ちゃんと一緒に、有希さんもまたニコニコと笑いながら見守っていたりする。一体どういうつもりなんだか。
俺は有希さんへの想いを口に出した事など一度もないにも関わらず、いつの間にかキッチンまで含めた店全体の公然の秘密となってしまっていた。気恥ずかしい気もするものの、特に有希さんに拒絶をする様子も見られないので、それはそれで悪い気分ではない。嫌がらないって事は、もしかしたらちょっとは良く思ってくれてるのかもなんて、淡い期待を抱いてしまったり。
一緒に仕事をしている最中もだが、有希さんが休みの日も、大学に行っている間も、一人でアパートで過ごしている間も、友人と遊んでいる時も、オレの頭の中にはいつも有希さんの姿があった。寝ても覚めても有希さんの事ばかり考えていた。
簡単に言うと、有希さんは俺にとって、これまで生きて来た人生で最大のストライクゾーン――ど真ん中を撃ち抜く相手だったのだ。
琴ちゃんはそんな俺の気持ちを敏感に感じ取って、何かというと有希さんを餌に茶化したがる。その日もやっぱり、きっかけは琴ちゃんの一言から始まった。
ランチの最後の客を送り出し、アイドルタイムに入った店内でディナーの準備を進めていると、
「ちょっと、陽君。聞いて聞いて。この間有希っぺとデート行ってきたの」
「デート?」
自分でも情けないぐらい敏感に反応してしまい、それを見た琴ちゃんは思惑通りといった満面の笑みを浮かべた。
「そ。カフェ行って来たんだ。ね、有希っぺ」
「ああ、この間ね。うん」
いかにも一大イベントの結果報告とでもいうかのように盛り上げようとする琴ちゃんに対し、有希さんはいつも素っ気ない。それはそれで、彼女の魅力の一つだ。
「それで今度さ、『マンマミーヤ』に行こうって話してるんだけど、陽君も一緒に行かない?」
「え、俺?」
まさか自分が誘われるとは思わず、俺は自分の顔を指差してしまった。
『マンマミーヤ』と言えば、この店から数百メートル離れた駅近にこの春オープンしたばかりのイタリアンレストランだ。同じような店で働いているせいか、なかなかの盛況ぶりだという評判は耳にしている。
「あそこ、かなり盛りが良いっていうんだよね。だから若い男が一人いると助かるじゃん? 有希っぺなんてほとんど戦力になんないし」
せっかく誘って貰えたかと思えば、ただの残飯処理班かとがっくり肩を落とす。確かに有希さんは、賄いのパスタですら八十グラムを指定するぐらい小食だ。とはいえ有希さんが残した料理なら、喜んで皿まで舐めたい勢いだけど。
「陽君が来てくれるんだったらデザートとかも頼めるかも」
なんて有希さんが無邪気に喜ぶから、俺は了承せざるを得なかった。いや、喜んで承諾したと言うべきか。
有希さんと一緒にランチなんて、願ってもないチャンスだった。
たちまち頭の中は、当日の事でいっぱいになってしまった。何を着て行けばいいだろう。有希さんも、いつもよりおめかしして来たりするのだろうか。
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