死神喫茶~黄泉平坂でいただきます~
渋谷滄溟
赤字店主は死神と出会う
第1話 死神さんと絶体絶命の跡取り娘
しんしんと雪が降り積もる十二月。
「藍理、よく聞きな」
やせ細った老婆が病床で呟く。彼女の傍には、孫娘一人が手を取って寄り添っていた。
「なあに?おばあちゃん」
「アタシが仏になった後の話さ」
「あぁ、もうやめて、その話は」
孫娘の藍里は祖母の手に額を押し付けた。しかし、老婆はその引き締まった眉間を緩めなかった。
「いいや、よく聞くんだよ。アタシが死んでも、“黄泉平坂の茶処”は絶対に守り切るんだよ」
「無理だよ!私まだ高校生だよ?それにおばあちゃんいなくなったら、ずっと一人ぼっちだよ?私」
「それでもさ。あの店は我が大蔵家の宝。なくしちゃいけないんだ、あ、あい……」
「おばあちゃん!?」
藍里は祖母の握力が徐々に失われていることに気づいた。藍理は目尻から零れ落ちる雫の玉を振り払って、声をかけ続けた。
「しっかりしてよ!死んじゃイヤ!」
「藍理、藍理や、顔をよく、見せて」
藍理は視界も奪われた祖母の懇願に応じた。すると老婆は、孫娘の額から頬にかけて優しく撫でた。
「可愛い子や、アタシの自慢の孫。お前には、アタシの全てを叩き込んだ。お前には、大蔵家の“奇跡”がある。お前ならできる、あの店をもう一度客の声で一杯にできる。後は、全て頼ん、だよ、し、しに……」
そうして老婆は壊れたラジオのような声を漏らすと、あっという間にその生涯を閉じた。藍理は唯一の家族を亡くした現実に絶望した。打ちひしがれた。起きもしない祖母をゆすった。しかし、それらは全て無駄だとすぐに悟った。そして、老婆の手を胸の前に置くと、その閉じられた瞼をそっと撫でた。
「いいよ、やってみせるよ。アタシ、おばあちゃんの喫茶店、繁盛させてみるよ!仏
も恋に落ちるような店を作ってみる。だから、先にあの世で笑ってなよ、おばあちゃん」
そう言うと少女は流れる涙を堪えて、黄昏を覆う雪景色を見つめた。輝こうと努力するそれを、白い悪魔たちは容赦なく暗闇の世界へ誘っていく。まるで、一人残された藍里の運命を体現しているかのようだった。
しかし、藍里は持ち前の溌剌さから、それを全て跳ね除けんと大きい笑みを作ったのだった。
※
黄泉平坂の茶処。それは福井県山間部の地方に建つ喫茶店である。ステンドグラスの窓に白い壁、更に焦げ茶色の瓦屋根に煙突。モダンな雰囲気が、教会のように神秘的なオーラを放っている。その店の歴史を遡れば、明治時代まで行きつく。黄泉平坂の茶処は、開店当初は文明開化の風潮を取り入れてそれはそれは大盛況の日々を送っていた。
初代店主である大蔵貞義の料理はどれも絶品であり、彼の作った卵焼きを食べるために峠を越える列ができたという伝説もある。彼の料理は裏では“仏をも落とす味”とまことしやかに囁かれており、一時期は皇室直属のコックへの打診もあった。しかし貞義は田舎でほっそりとやっていきたいとの理由でそれを辞退。黄泉平坂の茶処は、いつしか国内外問わずの観光名所の一つとなった。
しかし、その栄光が続いたのも束の間。太平洋戦争が起こり、店は休業をせざる負えなくなった。数年が経ち、漸く終戦の日が訪れ、大蔵家の生存者達は店の埃を全て払った。だが、時の流れとは残酷である。あっという間に戦火から復興した日本文化は、欧米諸国のものを積極的に取り入れ、常に斬新さを求めるようになった。町はネオンがぎらつき、女達は真新しい衣に身を通していく。喫茶店業界でも同じだ。
誰もが新鮮さに飢え、次から次に喫茶店が乱立されていく。人々は添加物で侵された食物に目を輝かせるようになった。最早、老舗ブランドと不変の味しか武器のない黄泉平坂の茶処は人々の視界の端にも置かれなくなった。そうして数十年が経ったいま、その実情はというと。
「ちっくしょぉぉ!何で客来ねーんだよぉぉ!」
ご覧の通り、閑古鳥が大鳴きしている。黄泉平坂の茶処の跡取り娘・大蔵藍里はカウンターのレジ前で項垂れた。彼女は少し前に祖母を亡くして、たった一人でこの喫茶店を切り盛りしていた。しかし、祖母の代から景気が芳しくなかった店の経済状況は孫の代になってからより一層深刻になった。今では、常連である近所の老人しか店に顔を出してきてくれない。謂わば、飲食業界の端くれである彼女にとって絶体絶命の状況である。
折角、海老茶色の袴とフリルエプロンでめかした少女も今では天狗のように真っ赤になっている。藍里は空の店内を見回して、やけになってカウンターに頭をぶつけだした。
「っざけんなよ!こっちだって、真面目に宣伝してるんだよぉ!トゥイッターとかピンスタグラムとか使ってさ!そうですか、分かりましたよ。最近の若者はトーキョーのタピオカに果物飴に夢中ですからね!誰も山のふもとのオンボロ喫茶なんて興味ないでしょうね!」
そこまで叫ぶと藍里は力尽きて、カウンター裏の床に滑り落ちた。そして足を抱えて蹲った。
「私にどうしろっていうのさ。あーあ、死んだおばあちゃんの前で『仏も恋に落とす店を作る!』とか言ってイキっていたのに……恥ずかしい。あぁ、なんかもう全部どうでもよくなってきた」
藍里は大きな溜息をついて、右手に額を擦り付けた。ふと見れば、そこには雫が付いており、涙を流していたと気づかされた。
彼女はいま、どうしようもない孤独に襲われているのだ。天涯孤独の身で、遺産である貧乏喫茶を一人で切り盛りしなければならない。勿論、そのための知識は全て祖母から叩き込まれた。母は病死、父は蒸発。父方の祖母である千夏は一人残された孫の藍里を後継者にすべく育ててきた。大蔵家秘伝のレシピや帝王学、経営学も教え込んだ。ただ、知識だけ備わっても、環境に恵まれていなければ話は別だ。
藍里の黄泉平坂の茶処は、既に破滅の一途を辿っている。田んぼを越え、小川を越えた先にある田舎の茶店を繁盛させることなど至難の業。しかし、閉業となれば彼女は多額の借金を抱えて残りの少女時代を過ごさなくてはならない。余りにも残酷な運命である。
「やっぱり、私には無理なのかな?おばあちゃん」
藍里は電球に照らされた寂しい店の中で呟いた。無論彼女の泣き言に答える者は一人もいない、かのように見えたが。
「店長さんや、文句が済んだら水でもお絞りでも運んでよ」
若い男の声だ。いやそのやさぐれた老婆の如き口調から断定してよいかもわからないが。しかし、店内には藍里を除いて誰一人いなかったはずだ。そしてドアの開閉音もしなかった。藍里は思わず飛び上がって、カウンターに手をついて覗き込んだ。
「お、お客さん!?」
何とカウンターの隅には初めて目にする若い客がいた。彼は縞模様のマフラーと、烏色の背広を着こなしていた。髪はウェーブがかっていて額で分けられており、その下には黒い紅で彩った唇と中性的な美形が迎えていた。男は口元に不敵な笑みを浮かべ、カウンター上で西洋琴を弾くように指を躍らせていた。
一見、大層怪しい客である。しかし、藍里にとって崖の中での一本綱に見えた。そして次の瞬間にはその二つに結ったお団子を整えて、精一杯の笑顔を作った。
「これはこれはお客様、大変お待たせいたしました!ご来店、誠にありがとうございます。」
藍里の挨拶に、男は「結構、結構よ」と手を振った。藍里は急いでお冷とお絞りを用意すると、彼の前にそっと置いて、ペンと注文票を取り出した。
「ご注文はお決まりでしょうか?サービスしますよ?」
「そうねぇ」
男は衝立に差し込んだメニュー表を吟味すると、暫くして藍里に流し目をした。
「じゃあ、黄泉平坂の茶処特製カレーにでもしようかしら」
「かしこまりました!」
藍里は威勢よく答えて、すぐにカウンターに面する厨房に回った。そういえば客足の少なさに甘えて、最近は仕込みをサボりがちになっていた。こうなったら、北陸新幹線よりも早く料理を提供せねば。
藍里はカレーに必要な調味料に、野菜、牛のブロック肉を用意しながら男を見つめた。彼はただ黙って、藍里の手際の良さを眺めていた。藍里は何だか久しぶりの客に小っ恥ずかしくなり、彼に世間話を持ち掛けた。
「お客様、珍しいお方ですね。うちの店に来る若い人はとっても少ないんです。今回は、一体どういうご用事でこの地を訪れたのですか?あ、もしかして敦賀に観光ですか?だったら、私、おススメの観光スポットを知ってて__」
「いいえ、観光じゃないの」
「へえ、それじゃ何で__」
次の瞬間、男の姿は消えていた。否、消えたのではない。移動したのだ。一瞬で藍里の目の前に。男は刹那の間に厨房に回り込んで、藍里の背に腕を回していた。そして凍り付く彼女の唇をそっと撫でた。
「アンタの魂を奪いにさ、藍里……」
「え、ええ?魂?ええぇ、何のこと?」
混乱して冷や汗を流す少女に、男はにっと笑った。
「アタシは死神、死神のモルテ。大蔵貞義との契約で大蔵家十代目のお前さんの命をもらいにきたよ。さあ、その命、アタシに寄越して」
そうしてモルテと名乗った男は自身の唇を藍里のそれに寄せた。彼女はあまりに一瞬の出来事にただ目を泳がせることしかできなかった。そうして、その暢気な頭には湯気が立ったカレーライスが浮かぶだけであった。
どうしてこんなことになったのだろう。藍里の小さい頭には何も分からなかった。
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