2-5 入社初日の仕事

 「今日からこの編集室で頑張ってもらいます」

 入社初日、私にそう言ったのは、編集者の川村さんだ。川村さんは四十才くらいの女性で、下の名前を「瑞葉みずは」さんといった。ペンネームらしいのだが、本名は教えてくれなかった。容姿端麗な美人で、独身女性だった。


 「分からないことは、何でも訊いて」という事と、「自分でよく考えて」という言葉を何度も聞いた。編集者になるのは、本当に大変なことらしく、アシスタントにもその仕事の重大さが身にしみて感じられるのだった。



 私は春の只中にいた。それは人生の春だった。受験を終えて大学に入学し、望んでいたようなアルバイトにも就くことが出来た。私の日々は、刺激的な新生活のなかで、充実しきっていたのである。

 その頃から、叔母の家に行くことは少しずつ少なくなっていった。カエデさんと遊ぶことも多くなっていったのだった。

 「働く」ということが何なのか、私にも少しずつ分かり始めていた。アルバイトの最初の日は、新しい領収書綴りを渡され、そこのに編集室の住所と電話番号のゴム印を押す、という作業だった。「つまらない作業」だとは思わなかった。ひとつひとつの作業を、慎重に丁寧に行った。息の詰まる作業だった。途中、取材から帰ってきた高幡編集長に声を掛けられた。


「簡単だけど、重要な仕事なんだよ」

「はい。頑張ります」


 編集者のアシスタントの最初の仕事の日は、それだけを繰り返し、三冊分の領収書綴りを仕上げた。何も書かなかったし、何処へも行かなかった。取材もなかったし、電話にも出れなかった。


「お疲れさま。今日は上がっていいから」

 上役の川村さんにそう言われ、私は自分の仕事はこのままずっとゴム印を押し続けるだろうかと思った。思い切って、聞くことも出来なかった。


「おつかれさまでした」

 私はそう言って、ナップザックを背負い、編集室を後にした。



「あ、可愛い猫」

 自転車で帰る途中、道端で猫を見つけた。首輪をしていなかったので、野良猫だと思われた。

「おいで。猫ちゃん」

 私は、小さな猫を軽く撫でた。少し声を上げて、猫が鳴いた。


「これから、私はどうなるんだろう」

 沈みゆく夕陽を見ながら猫を抱き、私は漠然とそう思った。


 ⎯⎯ まだ、スタートラインにも着けていないのだろうか


 作家への道のりは、まだまだ遠かった。

 

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