第76話 お兄ちゃんとして

 あのおぞましい化け物を目の当たりにして、情けないことに腰が抜けてしまった。

 隣の楓さんも同じ状況らしく、肩を寄せて震えている。

 立ち上がらないと、敵を倒さないと。

気がはやるけど体が言うことを聞いてくれない。

 必死に足掻く私を尻目に、化け物は長い足で守護者を捕まえては、背中の口に放り込んでいる。


 怖い……怖い……怖い!


 恐怖が抑えきれず涙がボロボロとあふれ出て、全身が冷たくなっていく。

 嫌だ、嫌だ、死にたくない!

 もっともっとやりたいことがあるのに!

 動かないと、お願いだから動いて私の手足!

 意気込んでも、立ち上がることすらできない。

 あの化け物は近くに居た守護者たちを食べきると、頭らしき場所に貼り付いているいくつもの人間の顔が一斉にこっちを見た。


 頭に死が浮かぶ。直感で悟ってしまう。私は今から死ぬのだと。

 生をあきらめ、少しでも死の恐怖から逃れるために目蓋を閉じようとした瞬間、視界に飛び込んできた人影があった。


 それは――お兄ちゃん。


 ずっと一緒に育ち暮らしてきた兄。昔は頼りがいがあって私の憧れだった。

 でも、いつの頃から対等になり、そして……私は追い越してしまう。

 だけど、それを兄に気付かれないように振る舞ってきた。いつまでも対等の存在で一緒にいたかったから。


「僕はお兄ちゃんだ! 妹は必ず守る!」


 そんなお兄ちゃんが語気を強めて、化け物に向かって吠えた。

 いつもより大きく見える背中。


「安心しろ雪音。お兄ちゃんが守ってやる!」


 自分も怖いくせに強がって笑うお兄ちゃん。

 また涙がこぼれ落ちるけど、これは嬉し涙。大好きだった昔の頼れるお兄ちゃんがそこにいる。


「雪音、アレの土台の上に《落とし穴》を置ける?」

「え、あ、うん」


 体はまだ動かないけどTDSの起動ぐらいなら大丈夫だと思う。

 お兄ちゃんが指差したのは《サイコロ連弩》。

 円錐状の上部を切り取ったような土台の上に、サイコロをあしらったちょっと変な形のボウガンが乗っている。

 言われるがままに土台の上に《落とし穴》を設置した。

 お兄ちゃんはそれを確認すると《サイコロ連弩》に駆け寄り、ボウガン部分のグリップを握る。


「よっし。雪音、起動して」

「う、うん」


 何がしたいのかはわからないけど、大人しく指示に従う。

 土台上部に穴が開くと、お兄ちゃんはその上に乗っかっていたボウガン部分を引っこ抜いた。


「えっ、あっ!」

「上手くいった! 外しても消えてない!」


 そうか、そうだったのか!

 お兄ちゃんは《サイコロ連弩》を取り外してボウガンとして使用するために《落とし穴》を使った。


「引き金を引いたら……おおっ、ちゃんと撃てるな」


 お兄ちゃんが何もない空間に向かって矢を試し打ちしている。

 土台から離れても武器として利用できるなんて。これで所持できる武器として《サイコロ連弩》の価値が急上昇した。


「一番連射できるのを取ったから、これで攻撃手段は確保。問題は……」


 こっちに向かってきていた化け物にお兄ちゃんが矢を連続で放つ。

 撃ちながら私と楓さんから遠ざかるように胸壁付近を走る。

 化け物は飛んでくる矢を面倒そうに長い手で払いながら、体をそちらに向けた。意識が私たちからお兄ちゃんへと完全に移ったようだ。

 無数の矢が突き刺さり、ダメージは与えているようだけど倒れる気配がない。

 これが生身の相手なら出血や痛みで動けなくなるのを狙えるけど、相手はアンデッド。ダメージが蓄積されているかも怪しい。


「やっぱり、火力が足りないかっ!」


 相手の間合いより遠い距離から一方的に攻撃しているけど、お兄ちゃんも威力が足りてないことに気付いている。

 手伝わないと。さっきと比べて少しは動けるようになった。

 今なら!

 突如、化け物の動きが止まった。蜘蛛のように長い足三本が《落とし穴》に埋まっている。

 その状態から《落とし穴》の穴を閉める!

 すると開いていた穴が塞がり、三本の足が屋上に固定された。

 動きが止まった今が絶好のチャンス。

 でも、火力不足をどうやって――

 突如、爆発音が響き視界が炎で埋まり、爆風が吹き付けてきた。


「援護します!」


 立挙さんと男子生徒三人組が兄の元に駆け寄っていく姿が見える。

 お兄ちゃんの体に立挙さんが触れると、全身が光って見えた。今のはたぶん立挙さんのTDS《応援》の力。これで、一分間だけど身体能力とTDSが強化された。

 さっきの爆発は男子生徒Cさんが握っている小さな爆弾による一撃。

 更に爆弾を投げつけられた化け物の体が大きく仰け反る。


 失われた爆弾は男子生徒BCが手渡しで補充。間髪置かずにまたも爆弾が《投擲》された。

 何度も同じ場所で爆発した結果、肉も骨も吹き飛び、体の中身が露わになる。

 多くの死体を繋ぎ合わせた体の中心部に、青紫に光を発する丸い物体があった。

 それが何かはわからないけど、重要な器官であるのは直感で理解できる。


「お兄ちゃん、あの紫色のところを狙って!」

「わかった!」


 お兄ちゃんはボウガンを構えると照準を合わせる。

 一か八か私はボウガンの先端にTDSをセットした。

 連続で発射される矢はいつもとは違い、激しく燃えさかる炎と稲光をまとっている。

 その瞬間、お兄ちゃんと目が合い、お互いに何をしたのかを理解した。

 私が《火炎放射》で矢に炎を付与したように、兄は《電撃床》で電気をまとわせたのだ。

 火と雷が混ざり合った矢が紫色の物体に連続して突き刺さる。

 その物体から亀裂が化け物の全身へと伸び、割れ目から目映い光があふれ爆発四散した。

 撒き散らかされた腐肉をなんとか避けて、楓さんと手を打ち鳴らす。


「やったやんけ! あんたら双子最高やな!」


 顔色が少しよくなった楓さんが、私たちを称賛してくれた。


「ふふっ。自慢のお兄ちゃんだからね」


 自分よりもお兄ちゃんが褒められたことが嬉しい。

 敵が死んだのを確認したお兄ちゃんが、満面の笑みを浮かべてこちらに駆け足で向かってくる。

 今日ばかりは素直に褒めてあげないと。


「お兄ちゃん、最高に格好良かったよ」

「だろだろ、まあ本気を見せたらざっとこんなもんよ」


 走りながら胸を張って自慢げだけど、今日ばかりはいくらでも褒めるよ。

 それだけ頑張ってくれたんだから。


「全部終わったら、要さんたちにも自慢しないとね」

「おいおい、照れるじゃな……そこを離れろ!」


 笑顔で駆け足だったお兄ちゃんの形相が一変した。

 焦った顔でこっちに全力で駈けてくる。走りながらボウガンを構えると、私たちに向けて撃つ。

 何発もの矢が私たち――の直ぐ側を通り抜け、背後へと消えていく。


「お兄ちゃん、何、を」


 質問が届くより早く、背後から何かが突き刺さる音がした。

 慌てて振り返ると、至近距離まであの蜘蛛の化け物が迫っている。


「まだ、いたんかっ!」


 楓さんが《サイコロ連弩》を操って側面から矢の雨が降り注ぐ。

 一瞬だけ動きを止めたが、矢を浴びたまま異様に長い足が私へと伸びてくる。

 驚きと恐怖で体がすくみ、ぴくりとも動かない。

 化け物の大きな手が開き、私の体を掴む直前――体が横に吹っ飛ばされた。


「えっ」


 地面に転がる私。

 視線はさっきまで私が居た場所に向いている。

 大きな手が閉じられると、その手の中にいたのはお兄ちゃんだった。

 咄嗟に私を吹き飛ばして、身代わりになった⁉


「なんで、なんで! お兄ちゃーん‼」


 絶叫がほとばしり、届かないとわかっていながら手を伸ばす。

 お兄ちゃんは私を見ると、口元に笑みを浮かべる。


「僕はお兄ちゃんだからな」


 掴んだ化け物の手がゆっくりと上に掲げられ、大きく開いた背中にある口の上まで運ばれていく。

 助けを求めて周囲を見回すが、立挙さんたちは兄と化け物が近すぎて《爆弾》を投げ込むことができない。

 《落とし穴》を使っても効果は期待できない。《火炎放射》を使ったらお兄ちゃんまで燃えてしまう!

 もう、何も手がない……。私にできることは……。

 絶望に打ちひしがれ、ただ食われるところを見続けることしか。


「まだ、死なないって!」


 一人だけ、この窮地を脱しようと足掻く人がいた。――お兄ちゃんだ。

 お兄ちゃんは芸能生活で磨いたウィンクを飛ばすとTDSを起動させる。

 食べる直前で動きを止めていた化け物の体に、無数の棘が突き刺さり串刺しとなった。


「動きが素早くてなかなか当てられなかったけど、これなら確実に当てられるだろ?」


 化けの物の手から解放されたお兄ちゃんが地面に降り立つと、私に向けて会心のドヤ顔を見せる。


「もう、心配させないでよ」

「悪い悪い」


 ばつが悪そうに頭を掻いている。

 いつものお兄ちゃんだ。

 ほっと胸をなで下ろし安堵の息を吐く。


「まだ戦いは終わってない。気合いを入れ直――」


 表情を引き締め直した兄の発言が途中で止まる。

 黙り込んだ兄はゆっくりと視線を自分の腹部へ向けた。

 釣られるように私もそこを見ると、腹から細く伸びた異形の腕が突き出ている。


「あれっ」


 口の端から血を流し、「しまったな」と呟くお兄ちゃん。


「化け物が上がってきたぞ!」

「まだこんなにいるのかよっ!」


 屋上に何体もの蜘蛛の化け物が姿を現している。

 だけど、今はそんなことどうでもいい。

 私は悲鳴すら出ない。目の前の光景が信じられなくて、ただ見つめていることしかできない。

 ずるっと突き抜けていた腕が引き抜かれ、支えを失ったお兄ちゃんが仰向けに倒れた。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」


 必死で駆け寄り、頭を抱きかかえる。

 血の気の失せた顔が私に向けられると、その目が私を捉えた。


「ごめんな、お兄ちゃんダメっぽいや」

「馬鹿なことを言わないで! ずっとずっと一緒だって誓ったじゃない!」


 胸に開いた穴から大量の血がこぼれ落ちている。

 手で押さえているけど出血が止まらない。


「お願い、止まって! 止まって!」


 お兄ちゃんの命が血と一緒に失われていく。


「無理だよ、雪音」


 血まみれの私の手に冷たい手がそっと添えられる。


「嫌だ! 嫌だよ! 今までもこれからもずっと」

「雪音聞いてくれ。時間がない」


 お兄ちゃんの手が私の頬を撫でる。

 その目はあまりにも真剣で、泣くことも悲しむことも忘れてしまうほどだった。


「もうすぐ僕は死ぬ。だけど、雪音は生きて生きて要さんたちと再会するんだ。絶対に後を追うようなことはしないで。格好悪くてもいいから……生きて。ずっと一緒だよ。僕と……雪音は……同じなんだから」


 徐々に小さくなる声に荒い息が混じっている。

 泣き喚きたかった!

 死なないでとすがりたかった!

 でも、ずっと一緒にいたからわかってしまう。そんなことを口にしたらお兄ちゃんは悲しむ。だから、私は。


「うん、ずっと一緒だよ。これからもずっと、ずっと一緒だよ」


 涙を堪えて、想いを伝える。

 そんな私を見てお兄ちゃんは嬉しそうに笑う。


「最後にお願いが一つある。雪音の手で……僕を送ってくれ……。そのボウガンで」


 一瞬、兄が何を言っているのかわからなかった。

 だけど、すぐに理解できてしまう。


「もう、命が……尽きてしまう。その前に、僕の力を……僕を雪音に託したい……ごめんな、辛いことばかりさせて。でも……僕を……雪音と一緒に……」


 そこからは言葉にならずに、荒い息だけが聞こえる。

 私は近くに落ちていたボウガンを拾うと、お兄ちゃんに向けた。

 目を閉じて満足そうに微笑むと、お兄ちゃんは「ありがとう」と最後の言葉を口にする。


「大好きだよ、お兄ちゃん。これからも、ずっとずっと一緒だから」


 私は感謝の言葉を告げて――引き金に力を込めた。

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