ある二学期のこと
北西からの風に背中を押されながら校門を抜けた君らが右手に見える校舎の最初の昇降口前まで進むと、ビール腹の、髪の薄い職員が左腕でそちらを差し示しながら太い声を響かせる。
「五、六年生の教室はこちら。一、二年生は奥。三、四年生の一組と二組の保護者の皆様もしばらく直進してください……」彼は最後まで言い終わらない内に息を切らした一人の老婆に掴まる。彼女が呼吸を落ち着けるのを待ってやり、縺れた舌で発音された言葉を解きにかかるが、すぐさま降参する(「お孫さんは何年何組ですか」)。彼女はくつろいだ歯並びを自慢するように隙間から空気を気前良く吐き出し、再び息切れを起こす。そうしている内に若手の教師が応援に現れ、案内の続きをする。「三、四年生の三組から五組までの教室は運動場に見えるプレハブ校舎にあります」
そこで君らはマジシャンのシルクハットから飛び出す鳩を見る思いで、綺麗だがシンプル過ぎる気もする、乳白色の建物を目にする。老朽化した本校舎の改修工事を進めるため、授業のない夏休みを利用して造られたばかりのプレハブ校舎には野暮くさい防球ネットが掛けられている。窓の下にはエアコンの室外機が回っており、休み明けに登校した児童たちは教室の天井から扇風機が生えていないことに気づいて、てっきり工事が未完なのかと思った。仮設校舎の冷暖房設備に一番がっかりしたのは教員達だ。というのも、職員室にエアコンが導入されたのは十年以上も前の話で、彼らが季節を感じられるのは、普通教室で、半年ぶりに回転させる羽根から埃の雨を降らせたり、石油ストーブに着火したりする瞬間ぐらいなのだ。そして、二学期の授業が本格化するにつれて彼らはある懸念を抱くようになった。子どもたちが元気過ぎる。円滑なクラス運営を任された教師にとって、小学生の活力を萎ませてくれる熱気は右腕のような存在だった。それを麻酔がかった
それにしても随分歩くのが遅いじゃないか。君が四年四組に辿り着く前に教師は黒板にモーターカーの回路図を描き終えたし、子供たちは八つの班に分かれて好き放題始めている。私語や教科書への落書きはもちろん、上履きで床を踏み鳴らしたり、抽斗をわけもなく押したり引いたり、隣の班の憎い敵に投げつける消しカスを用意したり。落ち着かない児童らを教卓から見下ろす中年男の顔付きには、せめて保護者の前だけでも良き教師を演じてやろう、叱ってやろうという気概が全く見えず、ただ授業計画を遅れずに実行することだけが己の職務だと弁えている風だった。
「班長は検流計を取りに来てください」
すると、十人くらいの男子が立ち上がり、同じ腹積もりの人間が他に九人もいることに気付くやいなや担任の前に押し掛けた。彼らはすでに個人主義に目覚めている有望な少年達で、一台の検流計を四、五人で共用するというような真似は己の尊厳を傷付けると信じ切っている。当然ながら個性的でありたいというありきたりな願いにも取り憑かれていて、同族嫌悪が凄まじい。ほら、たった今一人後ろに突き飛ばされて尻餅をついた。彼は底辺からライバル達が服を掴み合っている様を羨ましげに見上げ、次回の競争に敗れないよう牛乳をいっぱい飲んで背を伸ばしてやるんだと心に誓う。それから自分の席に戻る途中でふと保護者列から憐れみの視線を浴びていることに気付き、弱者に甘んじるのも悪くないなと思い直す。このちびを廊下側から見ていた一人の母親が隣にいた厚化粧の女に小声でこう話しかけるのが聞こえる。
「うちには上に三人の子がいるけどねえ、こんなひどいクラスは初めてだよ」彼女は相手の頷きを待たずに言葉を続けた。「クラスを八つに分けたのに騒ぎは八倍と来てる」
厚化粧の女は自分が話しかけられているのか確信が持てずしばらく黙り込んでいたが、内心誰かと喋りたくてたまらなかったので応じることにする。
「そうさね。娘から聞いていた通り、ここには秩序ってものがないんだよ。まず担任からしてだらしないんだからね。クールビズ期間だか知らないけど、参観日くらいネクタイ締めたっていいじゃないの。それに、妻帯者なのに皺くちゃのシャツを着るってのは私ら保護者に対する礼儀に欠けると同時に奥さんの怠惰を吹聴するようなものよ。全体に気遣いが感じられない。なのに、生気のない表情をしているのはどんなわけなのか。節約したエネルギーはどこへ行ったの」
数分後彼女らはつい先ほど初めて話したばかりとは思えないほど打ち解けた様子で意見を交換している。我が子の習い事の種類を述べ(「うちはピアノとそろばんと水泳だねえ」)、私立の中学を受験させるべきか、という重要な問題を論じ、四月からちらついていた学級崩壊の兆しを一つひとつ数え、答え合わせに満足した。両母親にとって喜ばしいことに、子供たちは学校生活の様々な出来事をほとんど誇張も歪曲もなく伝えていて、まるで毎日親に報告する内容を子ども同士で事前に話し合っているかのような整合性だった。そこまで話し終えると二人は満足そうに黙り込んだ。
一方教室内では、
「では、今日のまとめに移りましょう。乾電池を直列つなぎにすると電流が大きく、並列つなぎにすると小さくなりました。ところで、つなぐ向きを変えたらどうなりましたか、馬場さん」
背後に構えていた班との間隔が狭すぎて椅子を下げるのに苦労しながら、ツインテールの女の子が半分立ち上がって答えた。「針が反対に移動しました」
「そうです。針が反対に振れましたね。これは電流の方向が逆になったからです」
教師はチョークを何度か左右に振って授業の内容を印象付けようと努めたが、これは一部の保護者の邪推を招いた。反復のリズムにどことなくワイパーを連想させるところがあり、それはこの不指導者の思いが参観の後に控えた懇談会を跳ね飛ばして、アイロンの使い方こそ覚えないが、今も熱い愛情を注いでくれている気がする妻のもとへ法定速度を超え突っ走っているかのような錯覚を引き起こした。信用の最後の余白が黒く塗りつぶされ、それから一週間と経たない内に起きた「チョーク入りスープ事件」で男が教師をやめることになった時も、各家庭での反応は感動詞一つか、それと似たり寄ったりの素っ気無いものだったという。学校側は不毛な聞き込み調査を彼岸花の花期いっぱい続け、人を馬鹿にしたような問いかけと受け答え(「どうして伏見先生のスープに入っていたチョークの色は緑だったんでしょう」「虫歯の治療を勧めるため、ですかね」)が三十六人分記録された。
公式的には未解決に終わったこの事件の後日談を聞かせて胸糞悪い過去の一場を締めくくるとしよう。それからおよそ四年後、精神を病んで担任を下りた男のことなどすっかり忘れていた中学二年の初夏のことだ。まだ冷たいプールの水を嫌がって部室に籠っていた水泳部の面々は自らが体験したという体で心霊現象や珍事を即興で語った。そうした話の中に例の事件を犯人の主観で回顧したものがあり、話者は、給食当番のエプロンの袖を念入りに調べた当時の大人達が知るべくもない偶然の機会を利用して異物を混入させた一瞬の出来事を端的に説明した。当番から順に最後の器を受け取った担任は教卓に戻る前にお盆をロッカーの天板の上に置いた。どうやら配膳台の足元に子供用のキャップが落ちていたらしく、彼がそれを拾おうと身を屈めた隙に当番の一人が素早く背後の黒板の粉受から一番短かったチョークをスープに沈め、わかめの下に隠してしまった。哀れな男が帽子のタグを確認してから持ち主のロッカーに押し込むまでが丸々逃走時間で、犯人は巾着を廊下のフックに掛ける頃には事の成功を確信していたそうである。この話は霧のような悪意が凝固した過程の不明さゆえに駄作扱いされた。「椅子があれば座りたくなるのとは話が別じゃないか」と、聞き手の一人が追及したはずだが、それに対する弁解があった記憶はない。「犯人もどき」はビート板の窪みをさらにほじくることに夢中だった。僕は彼の話のほとんどが実話だと思う。でも、言及されなかった最大の奇跡、残り三十五人の子供たちのよそ見に自分も加わっていたとは到底信じられない。
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