第十六話 その名は、ユキ

「ゴハン、オイシイ」


 目の前の皿に少しだけ残ったパンを見つめて、少女はそう、ぼそりと言った。


 アルとハルニアは揃って目を見開き、


「今この子、私たちの言葉を喋った?」


「…あぁ」


「オイシイ、ゴハン、キニイッタ、ヨカッタ」


 少女の小さな唇が動いて、言葉が紡がれる。黒真珠のような瞳はハルニアに向けられており、どうにか意図を伝えようと努力している様子が見て取れる。


「お前、話せたのか」


「っ!」


 その問いかけに、少女は一瞬びくっとした後、恐々としてアルを上目遣いに見上げて、


「コトバ、リカイ、チョット」


「…この短時間で、俺たちの言葉を憶えたのか」


 こくり、と頷く少女。


「ね、ね!じゃあ、名前は分かる?」


 そんな少女に向け、ハルニアが身を乗り出して尋ねた。


「ナマエ?」


「そう。あたしは、名前、ハルニア。あなたは?」


 自分を指さして名乗り、続けて少女につと指を向けるハルニア。


「ナマエ…」


 少女は小首をかしげ、しばし考えるような仕草を見せたのち、


「ユ、キ」


 ゆっくりと、一言一言を思い出すようにしてそう名乗った。


「ユキ?あなた、名前はユキって言うのね?」


「ン。ワタシ、ナマエ、ユキ」


「ふふふ、そっか、ユキちゃんかぁ。にしても、こんなに早く話せるようになるなんて、ユキちゃんは賢いのね」


 ハルニアに褒められたことが嬉しいのか、少女―…ユキは「にへへ」と表情を崩して笑った。


 ……いや、賢いで済む話か?


 そんな二人のやり取りを見て。平静を装いながらも、アルは内心で驚き、舌を巻いていた。


 少女の口調はまだカタコトでたどたどしいとは言え、言葉の意味は理解し、意志の疎通はとれているようだ。


 目覚めてからまださほどの時間も経っていないというのに、この少女は、自分たちの会話を聞いただけで言葉を憶えたというのだろうか。


 そんな彼に、ユキがふと視線を向けてきた。


 何かと思って彼女の顔を見返すと、ユキは『ひゃっ』と慌てて目を反らし、しばらくするとまた遠慮がちに視線を送ってくる。


「なんだ?」


「…。ナマエ」


「む?」


「アナタ、ナマエ?」


 ユキの意図が察せず眉に皺を寄せていると、「あんたの名前を聞かれてんのよ」とハルニアから突っ込みが入った。


 ……程なくして”モノ”として売る相手だというのに、話などして何になる。


 重いため息を吐きながらも、アルは短く答えた。


「アルトフェン・D・クロイセル…アルだ」


「アルルト?デ?フェ?」


「…アルでいい。皆そう呼ぶ」


「ナマエ、アル、ダイジョウブ?」


「あぁ」


「ン。リカイ」


 少し硬いが、あどけない笑み。


 それを目にした瞬間、胸の奥がずきりと痛みを発したような気がして、彼は努めて無表情を貫きながら顔を反らした。


 ……必要以上に感情的になるな。


 自分自身に、言い聞かせる。


 ……売れば一億G以上の価値があるくせに、手元に置いておいても疫病神にしかならん相手だ。少し落ち着いたら帝国に売り渡して、それでこいつとの関係は終わりだ。


 彼女を売れば、自身が負わされた借金を完済し、妹を探して取り戻すだけの金を得られる。


 このチャンスを無駄にはできない。それに、彼女は…古代人オルトニアは人ではなく、”モノ”なのだ。売っても自分は人買いどもと同じにはならない。


 そんなふうに、あれこれと考えていた…その時であった。

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