9 月と語らう
―――生まれてきてくれてありがとう。
赤一色の夢で、懐かしい声が聞こえた。
優し気なその声はアトレにとって大切なものであり、既に
赤い夢は、やがて白い夢へと変わっていく。
降り積もる雪。言い争う人達。何もできずに守られるだけの自分。
白い雪は、赤い血の熱さに溶けていく。
血が雪に温度を奪われて冷たくなっていく。血を流している人達も冷たくなっていく。
アトレは血を手で掬い上げて、その人へと戻す。
投げ出された手足は動かない。
何度も、何度もそうしている。
顔面が陥没した死体は動かない。
千切れた体を寄せ集める。
それはもう人ではなかった。
人でなくなった人型だから、二度と動くことはない。
赤く染まった白い夢は、次に黒い夢へと変わる。
いくつもの大きな人影が、赤い瞳を見開いている。視線の先にはアトレが一人泣いていた。
自分が殺した。守られているだけの自分が殺した。
だから、責任を取らないと。死んだ人達に報いないと。
―――コン、コン。
遠くから戸を叩く音と、最近聞いた声が聞こえる。元気のいい声だった。
―――アトレ様ー!
「ん……リ、オ……」
寝起きの掠れた声でついさっき出会ったばかりメイドを呼ぶ。すると現実に引っ張られたのか、意識は急速に夢から離れていった。
(そうだ、ここは)
アトレの目が開かれる。手を眼前に持ってくると、血に汚れてはいなかった。
「アトレ様ぁー!お食事ですよー!」
扉越しに聞こえるリオの声に、アトレは疲労の残る体を立ち上げた。扉に向かい、鍵を開ける。扉を開くと、配膳ワゴンに食事を乗せたリオが立っていた。
「あ、起きてた!よかったですー」
客人を何度も呼びつける行為はこの家では失礼に当たらないのだろうか。アトレはそんなことを考えはしたが、向こうも仕事でなければそうはするまいと納得する。眼前のちんまいメイドも苦労しているのだと、まだ僅かに眠った意識の中で言葉なく思う。
「いや、寝ていた。起こしてくれてありがとう」
配膳ワゴンには、まだ暖かそうな料理と、バスケットにいくつかのパンが用意されていた。料理はぞれ二皿ずつ用意されており、明らかに一人分でないことを思わせる。
「……量が多いな」
「あ、こちらはですね」
事情をリオが話そうとした時、開かれた扉の陰からひょこっと、見覚えのある白金の髪が現れた。モノである。
「おにーさん、やっぱり疲れていたんですね」
モノは扉の陰からワゴンをじいと見つめながら涎を垂らす。そのぎらついた目は狩猟者のそれだった。
「モノ様、アトレ様とお食事をご一緒されたいようでして」
「一人で暇なんです」
テラウはウェルタにより呼び出されていたのだった。アトレは思い出すと得心し
「俺もお前には聞きたいことがある。丁度いい」
と、モノを部屋に迎え入れた。「失礼します」と会釈をしてモノは入室する様子を見ると、アトレは改めて育ちの良さを感じるのだった。
次いでリオがワゴンを押しながら入室すると、部屋に唯一ある書き物机と料理を幾度か見比べた。二人分の食事一式が乗りきるかどうか怪しいといった目線であった。
「乗りますかね……?」
「ギリギリだな。とりあえずこの机で食べるから、隣の部屋から椅子を一つ持ってきてくれないか」
「かしこまりました!」
リオは隣の客室から椅子を一つ持ってくると、書き物机に並べられていた何冊かの娯楽書をベッド脇のサイドテーブルに積み上げた。アトレの手を借りて机を部屋の角から動かすと、てきぱきと料理を並べ始める。その間、アトレにとって目の毒なリオの胸部は揺れっぱなしだった。
「……おにーさん」
モノの目は最早、誘拐から救ってくれた相手へのものではなく、早男の短絡的な情欲を軽蔑するだけのものとなっていた。睨むとも見つめるとも違う色のない
「……なるべく見ないようにしてるんだ」
「逆に変態っぽくなってます」
精一杯の自己弁護も、少女のフィルターを通せば下劣なものへと変換される。アトレにもう言葉は残されていなかった。目を逸らして肩を落とすと、リオは苦笑して二人の会話に入り込んだ。
「あはは……、慣れてますから、お気になさらず」
「……すまない」
「いえいえ。アトレ様は紳士ですから平気です」
リオが料理とバスケットをテーブルの上に置く間、アトレは部屋の照明をじっと見つめていた。誰がどう見ても女性に慣れていない男の挙動で、言うまでもなくその内心は女性二人に筒抜けだった。
「食べ終わったら呼べばいいのか?」
アトレの視線は天井を向いたままだった。いい加減にしろと、傍らに立つモノが数発の裏手チョップで正気に戻す。リオは困り顔でそれを眺めていた。アトレの視線が真っ当なものに戻ると、リオはもう一度元気のいい笑顔を振り撒き始めた。
「後でもう一度伺いますので、ごゆっくりお楽しみくださいね!」
ワゴンを押して扉に立つと、リオは最敬礼と共に退室した。ゆっくりと扉が閉められ、室内はアトレとモノが二人いるだけとなる。
二人は部屋の中央に移動させた机に対面して座ると、用意された糧に会釈をしてそれを食べ始めた。
「すまなかった」
唐突に謝ったのは、つい先程まで変態認定されていたアトレの方だった。
「ん?変態っぽいからですか?」
指摘に、アトレは眉を寄せた。面倒な空気になる。そう考えるや否や、訂正は口をついて出た。
「違う。お前のことを後先考えずに助けた」
アトレはモノを救出する際、助けなければ碌な目に遭わないと考え、それに従ってあの森から連れ出した。それ自体は一般的な道義や人道に反するものではないが、助けた後のことは何も考えていなかったのは事実である。指摘されれば痛い事実を、アトレは先に謝った。
「ああー。ん?謝ることですか?それ」
が、モノは肉料理に
「俺にとってはそうだ」
対照的に料理にあまり手を付けなかったアトレだった。目を伏せて申し訳なさそうにするばかりで、見ているだけで食事が不味くなりかねない。モノは不服そうな表情を浮かべると、口元まで寄せたパンの切れ端を取り皿に戻した。
「私にとっては違うので、この話終わりにしません?」
表情こそにこやかだったが、向けられた冷たい目線はしかし、内心の不快感が滲み出るものだった。
モノにとってアトレは命の恩人に等しい。どうなるかもわからなかった未来に、少なくとも自分が選択する余地を与えてくれたのだ。アトレが助けたことを謝罪するなら、それは誘拐された後の暗い未来を肯定することに他ならない。
アトレはモノの言を自分への気遣いだと勘違いすると、更に言葉を間違えた。
「……ありがとう」
「ごめんなさいとありがとうをちゃんと言える人っていいですよね」
本当に謝るべきは今だった。モノの指摘にそう気付くと、アトレは今度こそ素直に頭を下げた。
「……ごめん」
ようやく会話の歩調が噛み合うと、モノは不機嫌そうな目つきを柔らかいものへと変えた。どうも焼きたてらしいパンのふわふわとした食感に表情を崩す。
「そんなことより、聞きたいことがあるって言ってたじゃないですか」
落ちそうな頬を支えながら、モノはアトレに話を促した。「おいひー」と行儀悪く漏らす姿は、誘拐され未来を奪われる恐怖を味わった後とは思えない。
「ああ。お前のことを聞きたい」
言った直後、受け取り方次第では異性へのアプローチと勘違いされかねないことに気付くと、アトレはモノから視線を逸らした。
「はい、わかることならなんでも答えますよ」
食事に夢中のモノが勘違いしなかったことに内心で胸を撫で下ろすと、アトレはようやくいつも通りに話すことができた。
「親はいるか」
「あ、あー……。あはは」
乾いた笑いは、何か答えづらい事情があることを露骨に示していた。生死が明確ならそれを言って終わりになるところを敢えて濁したのは、語るのが面倒な事情があるからに他ならない。アトレはそれを察すると、大して興味がないという素振りを見せつつ食べやすい大きさにカットされたバゲットに手を伸ばした。
「絶対知りたいってわけじゃない」
口にも出してそう伝えるが、モノは声を唸らせた。目を閉じて少しの間「うー」と発すると、やがて結論が出たのか、大きな目を薄く開ける。
「はい、生きてはいると思いますよ?」
「……どっちだ」
目線と顔を最大限に傾けた回答は、モノ自身が強い確信を持てないことの裏打ちだったのだろう。何も入っていないはずの口をもごもごと動かすさまは、自分の言っていることに引っ掛かりを感じているようにも見える。
「お家と騎士団の間でちょっとありまして」
次いで告げられた事実に、アトレは間を丸くした。
「何かに危ないことにでも巻き込まれたのか?」
「その辺は一旦置いといて、とにかく首都のどこかで生きてると思います」
アトレは肉を口に運びながらモノの事情を一考する。国と問題があったというモノの家と、生きていると”思う”程度には行方が分からない両親。一人どこかに運ばれる予定だったのだろう娘は、しかしそのことに大きな動揺もしていない。
(助けた身として、せめて家までは送りたい。しかし馬鹿正直に送り届けるのは危険そうだ)
アトレは所詮いち傭兵でしかない。余計な問題に首を突っ込むのは御免だった。だが、自分の行動の責任は取るべきだとも感じていた。アトレの中には、厄介そうな事情と面倒な信条を抱え込むか、無責任にモノを放置するかの二択しか残っていない。
「……会いたいとは、思わないか」
結局アトレが選んだのは、モノの心持ちで決めようというものだった。モノの選択を自分の責任として受け入れる。短くはない傭兵稼業の中、アトレがよく使っている手だった。
「んー、でも、どこにいるかもわからないので」
モノの返答は、アトレの心から迷いを消し去った。会えるなら会いたい。モノは言外にそう言ったのである。
「……よし」
「おにーさん?」
答えながらも手を動かし続けていたモノの食事は、いつの間にか殆どなくなっていた。アトレは咀嚼するモノを見ていないことを不思議に思ったが、抜けた話よりも優先すべき話がある。
「俺は今、テラウの父から追加の依頼を受けている」
「あ、そうなんですね。ということは、明日からもこのお屋敷に?」
「ああ」
「いいなぁー。私もこのご飯、もっと食べたいです」
食事の味を思い出したのか、モノの意識はどこか遠くへと誘われていた。表情が完全に溶けきらないよう、アトレは話を元の路線へ戻す。
「それが終わったら、首都へ向かう」
「え?あ、はい」
「お前も一緒に連れていく」
アトレが告げるとモノは一瞬だけ表情を明るくした。が、それも一瞬のことだった。モノはすぐに困り顔を作って視線を逸らす。指を伸ばして組む仕草が、未だ期待に揺れていることを否応なく示していた。
「え、いやー、さすがにまずいですよ」
そんな言葉もどこか空疎に消える。部屋の灯りに吸い込まれていくような虚しさは、モノ自身が一番自覚するものだった。
「何がだ」
「……ぇと……」
「俺の自己満足でお前への責任を取りたいと言ってるんだ。嫌なら言ってくれればいい。だが、そうじゃないなら」
一緒に行こう、と、不器用な眼差しが言っている。モノはそれに目を合わせられないまま、しかし期待感に胸を膨らませた。もしかしたら、もう一度家族と居られるかもしれない。
「……私を探してる人、きっとたくさんいます」
それでも出てきた
「大丈夫だ。何とかする」
「どうやって」
「方法はいくつか考えてある。後はお前が決めるだけだ」
自身があると言いたげに、アトレはフォークに刺さった肉へかぶりついた。
アトレがそれを咀嚼する。次の肉が口に運ばれる。何度かそんな流れが繰り返された頃、モノは消え入りそうな声で呟いた。
「……帰りたい、な」
自分にさえ聞こえないような声量は、しかしアトレには何故か届く。
「……決まりだ」
アトレは安心したような顔で頷くと、最後の肉を口の中に放り込んだ。
「自己満足じゃない、ので」
「ん?」
「私も、きっと嬉しいですから」
期待を押し殺すように俯いたままのモノは、きっと小さく笑っていた。
「……そうか」
「ありがとう。おにーさん」
小さく漏れた礼に、アトレの表情もまた綻んだ。
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