4 ただそれだけの話
朝はいつでもやってくるが、心が晴れやかかどうかはまた別の話だ。男が眠れずに迎えた朝は、自覚した罪悪感や自己嫌悪を掃うことがなかった。
(
昨晩から幾度にもなる寝返りを打って、男は重ねた
頭から被ったシーツを更に深く被り込んで、窓から差し込む朝日に身を
ぐう、と腹の音。どれほど落ち込んでいても、生きていれば腹の空くものだ。気付けば日も傾き、窓から入り込む光は赤みがかっていた。
(もう……夕方か)
男は本格的に参っていた。自分の行いと、それを娯楽などと称して楽しむ精神性に。やめておけばよかったなどと後悔しているが、難民へ感じる罪悪感よりも、なりたくないと思っていた
が、いかに自己否定に
「なにも、ない……」
しかしキッチンには食べられそうなものがまるでなかった。僅かに残っていたのはパンに塗るジャム程度のもので、まともに食生活を遅れる状態ではなかった。この数日、”娯楽”に
「買いに出るか……」
コートを着て家を出た男は、わざと遠回りをしていつもの商店街へ向かった。理由は無論、難民達の住む廃墟を通らないようにするためである。
(あの近くを通ったら、きっと俺はまたダメになる)
男は自分のしたことに嫌悪しながらも、その快楽は未だ忘れていなかった。だからこそもう一度そこを通れば、同じことをもう一度したくなるだろう。自分を
男は商店街で手早く買い物を済ませた。数日分の食糧を右手の布袋に
(どうして俺は気付かなかった。情けない……)
卑劣な行いに悦楽を覚えた男に褒められるところがあるとするのなら、自己弁護の類を一切行わなかったという点だろう。男は自分の行いを正面から見据え、心底からそれを悔いていた。その根底にある罪悪感の多くは自分に向けられたものだったが、男が反省に心を痛めていることは違いなかった。
外に出て少しだけ頭の冷えた男はそれを自覚したが、しかし反省の方向性に変化はなかった。自分が悪い。自分に悪い。なりたい自分とは違う。自己批判や自己嫌悪の視線はそのようなものだったが、男にとってそれは問題ではなかった。
肩を落としながら歩いていた男は、視線も地面を向いていた。整備された
「あれ?お兄さん」
声はいつかの少年のものだった。男は自分が呼ばれたと気付かず、それを無視して歩を進める。少年は二度三度男を呼んだが、そのいずれにも男は反応しない。距離は開くばかりだった。
かつ、かつと、足音が男の耳に届く。それが止んだと思うと、男は正面に少年を認めた。表情はむすっとしており、その視線は強いものだった。
「…………」
足を止めた男と少年は正面からじっと互いの姿を観察する。少年の目線の中にあったのは呼びかけに応じなかった怒りなどではなく、男の心配をしていることが分かる、
「あ」
しかし、声に出たのはそれだけだった。突然の再開に何を言っていいのか、男の頭は真っ白になった。
「んぁ?」
少年は目を丸くして男を伺うが、男は硬直したまま動かない。固まったまま視線を上から下に行き来させ、少年が手ぶらであることに気付くと、そこでようやく思考が回り出した。
「……今日は」
男の重い口がようやくまともな言葉を発する。
「はい」
聞き手はどこか緊張した面持ちで、何やら通告を受ける直前のように固まった。
「荷物を持っていないんだな」
「あ、はい。今日はこれからお買い物ですから」
なんだ、普通の話か。少年は上がった肩の力を抜くと、穏やかに答えを返した。
「そうか」
「ですから」
少年は男の返事を待たず、荷物を提げていない左手を取った。男の表情や気勢に気付かぬ振りをして。
「行きましょう」
「あ、ちょ」
男は体勢を崩しかけながらも少年に引かれるまま商店街を行く。とりとめのない雑談を交わしながら、二人は明らかに多い量の食材を買い込んだ。
それらのほぼ全てが傷みかけているもので、いずれも割り引かれ値段の安くなったパンであった。少年に大家族でもいなければ、腐る前に消費することはとてもできない程に大量の。
それを両手いっぱいに抱える少年と、大きな袋に何人分かもわからない程のパンを提げた男。二人は夕暮れに赤く染まった商店街を、人の流れに逆らって歩く。
やがて少年の自宅に到着すると、男は玄関口の前で膝を立て、大袋の中に入ったパンの小袋を少年に手渡した。
「いきなりごめんなさい」
玄関口から奥の居間に進みつつ、少年は口を開いた。それは明るい声だったが、しかし表情は曇りを隠せない。自分が取った突然の行いは男の迷惑になっていないだろうか。そんなことが少年の心にずっと浮かぶ。少年は背中越しの視線を感じながら居間のテーブルに小袋を置くと、不安げな表情を
「いや、いいんだ。……むしろ」
戻ってきた少年に小袋を渡し、男はしかし少年から目を逸らした。男にとって困る誰かを助けるという行為は、その罪悪感を
「ありがとう」
男の口から自然と出た礼に、少年は繕った硬い表情を微笑みに崩した。少しは元気になったのだろう。少年はそのちょっとした手応えに満足すると、ようやくいつもの自分に戻れるのを感じた。
「元気、出るかなと思って」
話す言葉はどこか恥じらいの混ざったものだった。年上の男性を
「元気は、どうだろう。でもいいんだ」
をれは確かに感じつつも、男はどこか前向きだった。沈んでいたものが少年に引き上げられたのだろう。逸らした目線をもう一度向けつつ、男の語気は芯を感じさせるものとなっていた。
「落ち込んでいてもいい、ってことですか?」
小袋をいくつかに抱えると、少年は自宅の奥と玄関口を往復する。宅内は男の想像した大家族が住まう程広いものではなさそうだった。小さなテーブルの上に隙間なく置かれていく荷物はどう見てもその大きさに見合う量ではない。
住めるのはせいぜいが二、三人だろう。男は失礼だとは感じつつもちらりと中を覗いた。少年が大量に、しかも家族では食べきれないであろう食料を買い込む理由は、男の常識では考えられない方向性に違いなかった。考えるだけわからない。男は思考を振り払い、少年の問いに意識を向けた。
「なんていうか……。自分が情けない」
小袋をいくつか抱え、少年が奥に歩く。受け答えは男が少年に荷物を渡す扉の前で行われた。一往復に一言ずつ。奇妙な間隔で交わされるそれは、しかし、男の応えで少年を止める。
「情けない……?よく分からないですが……」
男はその声に
「自分で立ち直らないと」
少年は受け取ったそれを無言で奥のテーブルへ置いた。男はそちらをただ見ている。影の差した表情はやはり、自分には踏み込むことができない。
誰にだってある。いけないことをしてしまったと、そんな自分を嫌いになる瞬間。失望されるのが怖い時に、自分のことが一番信じられない。己を助けないといけない自分が、自身を少し嫌ってしまうこと。
自分にもあったそれが、きっと男にもあるのだろうと納得した。そんな時、事情も分からない他人がしたり顔で何かを言ってはならないものだと、少年は経験として知っていた。
(きっと誰にも言えないんだ。自分がやっちゃったから、自分で反省しないといけないんだ)
てくてくと玄関口に立つと、少年は自分にできることをした。
「またお手伝いしてくれますか?」
関係性を変えないこと。少年にとってそれができることの最大だった。男は目を丸くして、自分より頭一つ以上も小さい少年に、目線を合わせることもなく笑いかけた。
「はは……。約束したからな。当然だ」
男の胸に敬服の念が湧き上がる。自分の心模様はきっと、何故かはわからないが知られているのだ。それでいて
「ありがとう」
「こちらこそ!」
大袋が少年の手に渡ると、二人はそんな短いやり取りで別れた。少年は自宅の扉を閉め、ドタバタと中で走り回っている。男はそれを微笑ましく思いながら、少しだけ前向きになれた自分には溜息を吐いた。
かつりかつりと歩き出すと、冷たい空気がは男の胸を刺すかのようだった。それでも前を向いて歩くことができた。
(人と話す、人に優しくしてもらう。それだけでこんなに気が楽になるのか)
少しだけ軽くなった胸に、男はある種の心地よさを抱いた。
「あ」
足が止まる。抱いた安心感に感じたのは、”娯楽”に優越感を見出した時と同様の鋭い衝撃だった。
(こっちの方が、好きだ)
比較の対象は無論、かつて感じた高揚感だ。それとは違い、今感じるそれは腹の底に何も澱まない。あと腐れの無い心地よさだった。
「……よし」
暖かな気持ちを抱いたまま、男は再度商店街に入ると、いくつかの店で食品、それも干し肉や果物など、手に取ってすぐに食べられるもの選び、抱える程の量を購入した。
少年がそうしていたように、大量の荷物に視界を遮られながら歩く。男が足を止めのは、難民の住む廃墟だった。男は自分の罪の所在はそこだと考えた。先程抱えたパンの大袋よりも更に大きな荷物を置くと、
「あれ、お兄さん」
少年はそこで、先程自宅に運んだパンを配っていた。
大量の、少年の家族では消費しきれないそれらは、誰によって食されていたのか。少年から難民へ渡り、難民から小さな子供へ。弱いものや飢える者から順に、しかしそこにいる多くの人間全員に行き渡る程度に、食べ物は配られていた。
「―――」
男は自分が本当に恥ずかしくなった。自分が考えたことの小ささ、身勝手さ。色々なものが一気に降りかかってくる。
「どうしたんですか?そんなに荷物を抱えて」
少年は難民の一人に配る役を任せると、立ち尽くす男の傍らに歩み寄った。袋の中身をちらりと見ると、何かを察したように微笑み、気の抜けた男に囁いた。
「きっと、何かしたくなったんですよね」
「……」
きっとそうだった。自責と罪悪感を少年との交流により照らされた結果、男はそれを心地よいと感じた。許されたような気持ちになった。だから、真に許されたいと考えた。その答えは単純で、償い、つまり彼らに与えた不快感を超える満足感を捧げるというものだ。
彼らにとって自分は悪人だった。なら、耐えた彼らは報われるべきだろうし、彼らの
「きっと伝わりますよ」
ほら、と少年は難民達を見た。数人が男を見ているが、その眼差しは暖かなものだった。その場で立ち尽くす男に、何度も自分達を嘲った男に、見覚えが無いはずもない。それでも難民達は男に冷たいものを向けなかった。
「……ありがとう」
礼は、誰に向けられたものだろうか。
男は荷物を引きずって一歩踏み出し、荷物の口を開いた。
「みなさーん、こちらのお兄さんが追加で持ってきてくれました」
難民達は一斉に男を見るが、その色は期待に満ちたものでしかなかった。彼らは一斉に押し寄せるのではなく、順番に並んで男から食料を受け取った。
「ありがとう」
どこにでもある礼。男はそれを一つ受ける度、彼らへの罪悪感が少しずつ軽くなっていく。やったことは消えるない。だからきっと、罪悪感というものは重く
「お前、ここでいつもメシ食ってたよな。見せつけるみたいに」
しかし、当然ながら男を善く思わない者もいた。男を
「……お前は嫌な奴だ」
直截な告白に、柄の悪い難民は男から干し肉を受け取ると
「帳消し、だからな。……ありがとよ」
と、薄く笑って去って行く。男は今、その行いを以て誰かから赦された。背中からじわりと喜びがあふれ、痺れを伴って体中に広がっていく。
「よかったですね」
聞こえもしない小さな声で、少年が男に微笑みかけた。
(決めた)
単純なことだった。小さな頃に誰もが学ぶ道徳心。
(
それを学んだ男は、自分の心に一つの誓いを立てた。
(後悔なく生きたい)
何人もの言葉がそれを
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